yokaのblog

湖で微生物の研究してます

出張は無くならない

コロナの谷間を見計らってつくば出張に行ってきた。前所属の産総研で長期培養している微生物サンプルの確認と、まだ京都に移動できていなかった冷凍サンプルの輸送が目的だ。

 まだつくばにいた去年の7月に関西を訪れて以来、半年以上ぶりの出張だ。何もかもがオンラインで大学内の移動すらほとんどない生活が普通になっていたので、電車や新幹線に乗っているだけでワクワクした非日常感を味わえた。コロナ前は毎月のようにどこかに出張に行っていたので、新幹線に乗り込んで椅子に腰かけて、ガラガラの車内の天井を眺めながら車内放送をボーっと聞いて、「当たり前だった風景が画面の外にまだあってよかった」ということをしみじみ感じていたりした。

 ほんの4カ月前まで住んでいたはずなのに、久しぶりに訪れるつくばの印象も変わっていた。つくばの人工的で殺風景な街並みはあまり好きにはなれなかったけど、ごちゃごちゃした京都の道の狭さや渋滞に少しうんざりしていたところなので「きれいで広々としていていいな」と感じた。空間的余裕は精神的余裕に直結するのだと再確認した。4カ月前までいたはずのラボも、大学の環境に慣れたところで改めて訪れてみると新鮮に感じられた。改めて、機材や研究環境に恵まれていたなと思うし、学生がいなくてポスドク以上の研究者とテクニシャンがガリガリと研究を進めていく様に、圧のようなものを感じた。何より、同世代の研究者がたくさんいて久しぶりに色々と話ができたのが楽しかった。地元に帰ってきたかのような安心感があり、改めて、ここでこのタイミングで良い人脈を築くことができたのは本当に幸運だったと思った。同世代の話に刺激を受けて、自分ももっと挑戦的にやっていかなければならないという気持ちも新たにした。やっぱり直接会って雑談含めてダラダラ話す時間はとても大切だし、この交流はオンラインミーティングでは代替できない。このまま出張や学会の文化が無くなると嫌だなと思っていたけど、出張も学会も無くならないんじゃないかな、と少し安心できた。「コロナが明けたら〇〇しよう」とあちこちで言いながら一向にその日が来ないまま1年が経ったけど、もう1年後にはさすがに現実になっていて欲しい。そうなっていない未来も十分に想像できるから怖いけれど。

 培養サンプルのスクリーニングも計画通りに終えて、うまく培養ができていそうなサンプルは詳細な解析をするために京都に持ち帰った。もともと前回の出張で琵琶湖で採った細菌をつくばで培養していたものなので、関西と関東を新幹線で1往復した選ばれし細菌たちだ。面白いものが捕れていてほしい。

シェルのパイプからRを使って最大値や平均値を簡単に得る方法

 シェルでデータテーブルを触るのにawkがよく使われるけど、最大値・最小値・平均値などを計算しようとすると結構めんどい。Rでやれば2語で済むような処理も、awkだとifやforを使って複数行を使って書かなければできなかったりする。自分はRのほうが得意なので、データが複雑になるとすぐにRに切り替えて解析するのだけど、概ねシェルで完結できそうな作業の中で一部だけRを使いたいときに、いちいち環境を切り替えるのが面倒で頑張ってawkで書いて時間を浪費することになっていた。なんとかならないかな、と思って色々と調べていたら、この方法を見つけて感動したので備忘で書いておく。 

例えば以下のようなtsvがあって、これの最大値を求めたい。

$cat data.txt
1	2	3
4	5	6
7	8	9

欲しい数値は9だ。awkでやろうとすると、列ごとに最大値を求めるのもまあまあめんどいのに、このケースでは列を横断して最大値を求めようとしているので余計にめんどい。
Rなら

max(data.txt)

の一行で済む。で、以下のようにすれば、これをシェルスクリプトの中で直接実行できる。

$cat data.txt | xargs Rscript -e 'max(as.numeric(commandArgs(T)))'
[1] 9

パイプからの出力をxargsでRscriptに引数として渡して、それをcommandArgs()で読み込んで実行するという流れ。-e' '内のコマンドをRスクリプトとして直接実行するために必要なオプション。commandArgs()内のTはtrailingOnly=TRUEの省略形で、余計な引数をRscriptに渡さないようにするために必要な呪文(デフォルトでTRUEになってないのは何故なのだろうか)。注意点としては、この方法では行列の形で渡しても、Rにはベクトルとして渡っているということと、渡された引数は文字列として認識されてしまうために数値として扱うにはas.numeric()をかませる必要があるということだ。
例えば以下のようになる。

$cat data.txt | xargs Rscript -e 'commandArgs(T)'
[1] "1" "2" "3" "4" "5" "6" "7" "8" "9"

入力を行列として受け取りたい場合は、R内でmatrix()を使って整形するなどの対応が必要になる。
また、デフォルトのRの出力では行頭に要素番号[1]がついていて、シェル内で変数として代入したい時など、数値だけが欲しいときには不都合だ。Rのcat()関数を用いれば要素番号を消せるのだけど、cat()はデフォルトでは最後に改行を返してくれないので不都合が起こることがある。そこで、paste0()で改行を行末に足すことで、数値だけを取り出すことができる。

$cat data.txt | xargs Rscript -e 'cat(paste0(max(as.numeric(commandArgs(T))),"\n"))'
9

で、これを応用すれば、最小値も平均値も中央値も合計も自在に求めることができる。

#最小値
$cat data.txt | xargs Rscript -e 'cat(paste0(min(as.numeric(commandArgs(T))),"\n"))'
1
#平均値
$cat data.txt | xargs Rscript -e 'cat(paste0(mean(as.numeric(commandArgs(T))),"\n"))'
5
#中央値
$cat data.txt | xargs Rscript -e 'cat(paste0(median(as.numeric(commandArgs(T))),"\n"))'
5
#合計
$cat data.txt | xargs Rscript -e 'cat(paste0(sum(as.numeric(commandArgs(T))),"\n"))'
45

行や列ごとの最大値が欲しいときは、シェルの段階で処理してからRに渡す。

#2列目の最大値を求める
cat data.txt | awk '{print $2}' | xargs Rscript -e 'cat(paste0(sum(as.numeric(commandArgs(T))),"\n"))'
8
#3行目の合計を求める
cat data.txt | sed -n '3p' | xargs Rscript -e 'cat(paste0(sum(as.numeric(commandArgs(T))),"\n"))'
24

もう少しデータが複雑になったら素直に一旦ファイルに出力してからR上でread.delimで読み込んだほうが早そうだけど、「Rなら1行でできるのに!」がシェル上でも1行でできるようになってとても快適になった。

参考にした記事:
immanacling63.rssing.com

論文出版社がますます嫌いになった話

 前回の記事では、今回出版した論文の内容を簡単に紹介したのだけど、どちらかというと書きたかったのはこっちだ。今回の論文は初稿完成から出版まで9カ月かかった。9カ月という期間だけみると、そんなに長い方ではないのかもしれない。だけど、原稿がこちらの手元にある時間がほとんど存在しなかったという点で、出版社の対応に疑問を抱かざるを得ないところが多々あった。せっかくなので、過去のメールをさかのぼって、これまでのスケジュールを確認してみた。

日      対応 所要日数 待ち日数
4月2日 初稿が完成、共著者に回覧を回す 0 0
5月9日 すべての著者からのコメントが揃う 37 0
5月11日 共著者すべてのコメントを反映した改訂が完了、共著者に再回覧 2 0
5月20日 共著者からの2周目のコメントが揃う 9 0
5月21日 2周目のコメントに対応した改訂を完了し、英文校閲にまわす 1 0
6月2日 英文校閲が返ってくる 0 12
6月5日 全共著者からの投稿同意を得て、原稿完成。APCの支払方法で確認事項が生じ、Editorial officeにメール 3 0
6月9日 返事がないのでリマインドのメールを送る 0 4
6月11日 それでも返事がないので、出版社に直接メール 0 2
6月12日 出版社から返事があり、問題解決。ようやく投稿 0 1
8月16日 査読結果がminor revisionで返ってくる 0 65
8月20日 すぐに改訂稿とresponse letterを作成し、共著者に回覧 4 0
8月25日 共著者全員とのすり合わせが完了し、再投稿 5 0
9月, 10月 Minor revisionだったのですぐ結果が出ると思いきや、全く音沙汰がなく、不毛で不満で不安な日々を過ごす - -
11月6日 再査読も覚悟していたところで、いきなりアクセプトの連絡 0 73
11月7日 早速APCの請求書が来るも、6月に問い合わせていた事項が伝わっておらず、再び同じ問い合わせをする羽目に 0 1
11月12日 返信を受け取る。相変わらずレスポンスが遅い 0 5
11月14日 APC支払に必要な書類を作成し、送付 2 0
11月21日 1週間経っても返事がないので、状況確認のメールを送付 0 7
11月23日 ようやく返事があったが、書類に不備があるので作り直せとの内容でため息 0 2
11月25日 書類の問題を解決し、支払手続きがようやく完了 2 0
12月8日 ここからがさらにひどかった。アクセプトから1カ月以上経って連絡がきて、やっとproofができたのか、と思ったら、video abstractを作ってやるからその素材を提供しろという内容。しかも翌日までに返事をしろと書かれている。これだけ待たせておいてその締切は無いだろと思ったけど、こんなくだらないことがボトルネックになっている事態はすぐに解決したかったので、即日で返信。 0 13
12月22日 それから2週間待ってやっとメールが来たので、proof遅すぎだろと思いながら開いたら、「video abstractができたよ!確認してね!」という内容。こちらが送った文章を字幕にしてそれっぽい音楽と画像に合わせて動画にしているだけの、存在価値のよく分からない動画。こんなくだらないことがボトルネックになっている事態はすぐに解決したかったので、即日で返信。 0 14
1月5日 なんと年を越してしまい、アクセプトから2カ月がたった。しかもジャーナルのウェブサイトを見ると、自分の論文よりも後にアクセプトされた論文がすでにpublishされている。どうなっているのかと、確認のメールをEditorial officeに送る。 0 14
1月8日 またしても返事がないので、またしても出版社に直接メール。少し怒っている雰囲気を出しておいた。 0 3
1月9日 返事が来て、「もう少しでproofできるよ」という1行のメール。申し訳ないの一言もなく、delayの理由を教えて欲しいというこちらからの質問は無視。なんでもいいから早くしてほしい。 0 1
1月11日 メールが来て、やっとか、と思ったら、「我々の対応はどうでしたか?」という出版社からのアンケートの自動送信メール。まだ対応をされていないので答えようがない。 0 2
1月12日 ついにproofが来た。アクセプトから67日目。と思いきや、なんとaccpepted dateが12月7日になっている。確認しても12月7日には何のやり取りも発生してない。確かに11月6日にアクセプトの連絡を受けているし、散々待たされた一ヶ月が無かったことにされるのは不満だったので、「アクセプトの日付が間違っているから確認してほしい」とコメントを入れてすぐに返した。 0 1
1月24日 特に編集部からの確認の連絡等もなく、いきなり論文がpublishされた。そしてアクセプトの日付は12月7日のままで直っていない。video abstractも現時点で“The video is not available.”となっている。全てが不満だけど、それよりもやっと終わったことの方が嬉しかったので、めでたしということにしておいた。 0 12
初稿完成以降の合計日数 65 232
投稿以降の合計日数 13 213
Accept以降の合計日数 4 75

こちらの手元に原稿があった時間は、初稿から出版までの297日のうち65日だ。そのうち、共著者に原稿を回覧して同意を得るのに要した時間(合計49日)差し引くと、完全に自分の手元に論文があった日数はわずか16日になる。査読が2か月強×2ラウンドというのは、短くはないけれど、すごく長いわけでもなく、忙しい研究者にボランティアでお願いしていることを考えれば仕方がないと思う(minor revision後はほとんど見るところが無かったはずなので、もっと早くできただろ、と思うけれど)。不満なのは出版社の対応だ。投稿前も後も、メールを何度も無視され、仕事が遅く、対応も不誠実だった。特にアクセプト以降は、こちらの手元に論文があったのは4日なのに対し、75日も待たされた。今まで投稿してきた他のジャーナルでは、数週間でproofが来てpublishされていたので、異常に遅い対応だったと思う。そのうえ、アクセプトの日時を改ざんされるという仕打ちまで受けた。法外に高いAPC(£2890/$4170/€3380)を受け取っておきながら一体何にその金を使っているのか。まったく割に合わない仕事ぶりだ。
 もともと、こういうオープンアクセス誌のやり方(法外なAPCと利益優先のいい加減な対応)が好きではなかったので、今回の論文も、元々は別のジャーナル(Molecular Ecologyあたり)に投稿しようと考えていた。ところが、共著者の一人から「APC出すからもう少し上のジャーナルから挑戦してみたら?」との提案をもらったので、チャレンジのつもりでMicrobiomeに出してみた。結果的には幸運にもそのままアクセプトされたのだけれど、とてもハイインパクトなジャーナルとは思えない、もう二度と投稿したいとは思えないような対応だった。
 それから話は変わるけど、今回の経験を踏まえて改めて、雑誌のインパクトファクターというのはあてにならないなということを感じた。正直に言えば、前回出した論文の研究のほうが、はるかに多くの時間を費やし、はるかに多くのデータをまとめ上げた大作であり、こちらのほうがハイインパクトな雑誌に掲載されてしかるべきだと思っている。ところが、先日の記事にも書いたように、あの論文はエディターに恵まれず、何度もリジェクトされて、IFで見れば今回の論文の半分以下の雑誌に掲載されている。結局、ハイインパクトな雑誌に載るかどうかは、エディターや査読者との相性の要素が大きくて、研究の内容は思っていたほど反映されていない、というのがこれまでの自分の経験を踏まえた感想だ。一方で、論文を出した後の引用数は、おおむね自分が感じている自分自身の研究への評価に比例して多くなっている。これは嬉しいことだ。なので、以前から感じていた

自分の研究成果を掲載するのは「ちゃんと読んでもらえる」水準を超える雑誌であればどこでもよくて、大事なのは引用数だ

という思いをますます強くした。
 今回の論文の出版が遅れてしまったせいで、2020年はファーストの論文がゼロという事態になってしまった。2021年中にもう一本出して穴埋めをしなければならない。次も大作になりそうなので時間的にちょっと怪しいけれど、ひとまずはそれを目標に頑張りたい。とにかく、Microbiomeに投稿することはもうないだろう。

離れた湖にいる細菌同士はやっぱり違う

学生時代に手を付けていた最後の仕事がようやくpublishされた。

当時調子に乗って広げまくった風呂敷を畳むのに、結局3年弱を費やしてしまったけど、何とか形にできてよかった。これで本当の意味で、博士課程でやっていた研究は完了したといえる。また本研究はスイス・イタリアで採集したサンプルを活用した成果として、CL500-11優占論文に続いて2本目になる。2か月半のヨーロッパ滞在の成果としてはこれで十分な結果が残せたんじゃないかと思う。

論文の内容を一言でいえば、

ロングリードシーケンサーを使った高解像度・高感度なアンプリコンシーケンスによって、湖の細菌の微小な遺伝的多様性(microdiversiry)の存在を湖間・季節間比較から明らかにした

というものだ。湖は互いに物理的に隔離されているにも関わらず、世界中で共通して優占する細菌系統が存在する。ただし、ここでいう「系統」は、保存性の極めて高い16S rRNA遺伝子の一部の領域を対象とした、限られた系統解像度の解析で得た結果に基づいている。系統解像度をより高めていけば、湖ごとの細菌間の遺伝的差異が明らかにでき、湖沼細菌の生態や進化の歴史を紐解く鍵が得られるかもしれない。実際、単離株やメタゲノム解析を用いた全ゲノム解像度の研究では、16S rRNA遺伝子がほぼ同一の細菌でも、湖間で異なる遺伝子型を示すケースが報告されている。しかし、湖沼細菌の大多数は依然として難培養性であり単離株を用いた解析は難しい。メタゲノム解析で培養非依存的に構築したゲノム情報を用いる手法も、コスト的に網羅的な解析が難しく、複数の遺伝子型が同所的に共存している場合の検出感度に難があった。

 そこで本研究では、湖沼細菌を対象とし、ロングリードシーケンサー(PacBio)を用いて、16S rRNA遺伝子と、それに隣接しより多様性の高い(=系統解像度の高い)ITS領域をターゲットとした、合計約2000 bpのPCR産物を対象としたアンプリコンシーケンスを行った。ロングリード解析ではシーケンスのエラー率の高さが問題になるけれど、本研究の特色として、PacBioのCCS(Cirular Consensus Sequencing)リードを用いて高品質なリードを得たうえで、CCS向けに設計されたDADA2のパイプラインを用いることで、1塩基解像度の解析を実現した点があげられる。この解析の正確性を確かめるために、ショットガンメタゲノムのリードとの比較も行ったのだけど、「十分なCCSリード数が得られていれば」レアな1塩基多型も含めて概ね正確に検出でき、優占的な変異に関しては変異の比率もほぼ一致した定量的なデータが得られることまで確認できた。

 解析の結果、従来法では検出できなかった系統内microdiversityが湖間や季節間で存在することが明らかになった。特に日本とヨーロッパの湖の細菌間では塩基配列に大きな隔たりがあり、大陸間での地理的隔離の存在を支持する結果が得られた。つまり、「微生物は世界中を飛び回っていて、環境さえ合えばどこでも優占しうる」という"Everything is everywhere, but environment selects"仮説とは相反する結果が得られた。一方で、microdiversityの程度は系統間で大きく異なっており、「系統内でどの程度遺伝的に多様化するか」はその系統の生態学的な戦略の違いを反映しているのではないかという仮説を提示した。

 まとめると本研究では、ショートリードよりも高解像度でメタゲノムよりも高感度なロングリードアンプリコンシーケンスの特性を活かし、湖の優占細菌系統の未開のmicrodiversityの存在を明らかにすることができた。一方で課題は、ショートリードと比較してのコスト当たりのリード数の少なさで、多くの系統/サンプルで、本手法の検出感度をフルに活かすほどのリード数が得られなかった。この点は、今後のロングリード解析コストの低下に伴って解消される問題であると期待している。また当然ながら、16S+ITS配列が同じだからと言って、ゲノム配列も同じとは限らない。本手法は「相違性」を検出できても「同一性」を結論づけることはできない。それに、16S+ITSの配列をゲノムや生理代謝活性と結び付けなければ、今回見いだされた系統的差異が生成・維持されるメカニズムにまで迫ることはできない。

 互いに物理的に隔離された「湖」という研究系は、微生物の系統地理的な背景を検証するにあたって格好の研究対象であると考えている。本研究で得られた知見を足掛かりに解析の焦点を絞り込むことで、今後はゲノム解像度での湖沼細菌のmicrodiversityとその生態・進化的背景の解明に挑戦したい。

 論文の簡単な紹介のつもりが結構長くなってしまったので、本論文の投稿・出版プロセスでの裏話は後編で。

研究がとても楽しい

 若いころに比べると、自分の思考や感情をあまり表に出さないようになってきた。理由は大きく二つある。一つは、歳をとって色々な経験を経て、「考えたことがあること」や「感じたことがあること」が増えたことで、「わざわざ外に発信しなくても、自分の中で消化できる思考や感情が増えた」という理由だ。経験が浅くて自分の中で消化しきれない思考や感情があったときは、それを言語化して外に出すことで、自分の頭を整理して、納得いく説明をつけるという効果があった。だけど最近は外に出す前に自分の頭の中で説明がついて納得がいってしまう。「思想が成熟して落ち着いた」ともいえるけど、「刺激や感情の起伏が少なくなってつまらなくなった」ということもできる。もしかすると、こう考えていること自体、自分の脳が老化して感受性を失ってしまっていることに、後付けで納得いく説明をつけてごまかしているだけかもしれない。いずれにしても、歳をとって「人生で経験しうる思考や感情の多くに慣れてしまった感」があって、「これは別に外に出さなくてもいいか」で済ませてしまえることが多くなった。

 もう一つの理由は、世の中には本当に色んな背景・考え方の人がいるということを知ったことだ。歳をとって、より多様な人のことを見聞きし、知っていく中で、

自分がかなりの確度で正しいと確信していることや、相当の自信をもって正義だと言い切れることに対しても、真っ向から反対の考えを持っている人が、見えていないところに普通にたくさんいるかもしれない

ということを常に意識するようになった。また、何かを言うとしてもその「言い方」がとても大事だということも、様々な経験から痛感するようになった。自分にとっては同じような趣旨の発言でも、言い方を少し変えるだけで印象は大きく変わり、不要に人を傷つけたり不快にしたりできてしまう。そういう苦い経験も重ねながら、自分の社会的な責任も高まっていく中で、若いころよりも、色々な立場の人が様々な捉え方をする可能性を想像しながら慎重に発言をするようになったし、想像できないものがありそうなときは、発言しないでおく、という手段をとるようになった。

 さて前置きが長くなったけど、こういう考えを背景に、自分が大きな声で言いにくくなってしまっていることがある。それは、「今の仕事、研究がとても楽しい」ということだ。なぜこれが言いにくいかというと、社会には

好きな研究をやって税金で食わしてもらっているなんてずるい

という意見を持つ人がたくさんいるということを知っているからだ。アカデミアにいると「基礎研究をもっと大切にしよう、そのためにはもっと待遇や研究費を上げないとダメだ」という意見が大多数で当たり前かのように感じてしまうし、自分自身も、基礎研究に税金を使う必要性を問われたときの自分なりの答えは準備している。一方で、自分自身もかつて会社員としてビジネスの世界で「お客さんからお金を頂くために働くこと」がどれだけ大変なのかを経験してきたので、「税金で好きなことをやって自分で稼いでもないやつが贅沢を言うな」と考える人の気持ちは理解できる。

 なので自分の仕事が楽しいということを、特に同業者以外の人がいる可能性のある場では、あまり表に出さないようにしている。だけど、いよいよ大学教員に就いて、1か月が経って、色々と仕事が本格稼働し始めた今、20周くらい回って改めて感じるのは、「やっぱり研究ってめちゃくちゃ楽しい!」ということだ。本当に会社を辞めてこの道に進んでよかったと思うし、この仕事が自分に向いていると思う。正直に、毎日やりたいことしかしていない。もちろん、短期的にみるとやりたくない仕事もあるけれど、それらも長期的には「これからもやりたいことができる環境を維持するために必要な仕事」として自分の中で説明がつけられる「広義のやりたいこと」として、自分の中で消化しきれている(ものが幸いにも今のところほとんどだ)。この仕事で給料を頂いて生活ができているのはとんでもなく恵まれていて、夢のようなことだと思う。

 考えや感情を表に出さないようになってきた、と言いながら、なぜこんなことをわざわざここに書いているのか。それは、自分が「研究を楽しんでいる」というのを伝えることで、安心してくれる人達がいると思ったからだ。一つは、自分がここに至るまでの幸運と環境を提供してくれた、これまでにお世話になった人達だ。おかげで自分はとても楽しい人生を送っているし、そのことに感謝しているということを伝えたい。もう一つは、今後研究の世界を志そうとしている後輩にあたる人達だ。自分自身もそうだったけれど、「先輩が楽しそうにしているかどうか」は、進路選択の大きな決め手で、真剣に見られていると思う。自分は普段あまりこういう話をしないので、もしかすると、目先の仕事に追われて忙しく辛い毎日を過ごしているように見られているかもしれない。だけど実際はそんなことは全くなくて、毎日楽しくて仕方がない。忙しいといっても全てやりたいことなので、「やりたいことが無限にあってやるだけ進む状態」で楽しくて充実している。アカデミアの厳しい現状の中で運と環境に恵まれただけの人間による生存バイアスだと言われればそれまでだけど、少なくともこの気持ちは偽りのない本音だということは伝えておきたい。

例外としてこなしてしまった1年

 歳をとるごとに冬休みが短くなり、年末に年末感を感じられなくなってきているのだけど、今年は帰省も自粛せざるをえなくなって、例年にまして年末感が無い。せめてこの1年を振り返ってみようと、少し考えてみたけれど、あまり思い出せることがない。特に、家に閉じ込められていた4月5月の記憶はほとんどない。

 記憶に残る出来事が少なかったのは、そもそも精神的に辛いことばかりで思い出したくないということに加えて、今年はあらゆることが「例外」として処理されてしまい自分事にならなかったという理由も大きいと思う。「今のイレギュラーな生活は、世界が元通りになるまでの辛抱だ」と考えている間に、とうとう世界が元通りになることはなく、1年が終わってしまった。毎年出ていた学会もほとんど無くなり、海外どころか国内出張もほぼ消滅して、「今年は例外だから仕方ない、来年は元に戻ってできるようになればいいな」と思っていたけれど、その見通しが立たないまま年明けを迎えようとしている。

 それに加え、今年の自分には異動という「例外」も重なった。異動前の10月・11月は、引っ越し準備だったり、仕事・生活の両面で「ポスドクで時間のあるうちにしかできないこと」に注力していたという点で「例外」だったし、12月は新生活・新環境への適応で精いっぱいで毎日が「例外」だった。送別会・歓迎会・忘年会・新年会が開かれることもなく、飲み会でワイワイ話す機会が一切ないまま新しい環境での人間関係が作られようとしている点でも「例外」だ。

 結局この1年、あれもこれも「普通」ではない「例外」という位置づけになってしまったせいで、「生活している」というよりも「こなす」ような生き方をしていて、「本番の生活」を送った感覚があまりない。厳しく言うと「例外」を言い訳にして、その場しのぎの毎日を送ることに満足してしまっていた面があった。それで、記憶に残るような出来事や進歩の無いまま、1年が過ぎてしまった。これが自分のこの1年の振り返りであり、反省だ。

 残念ながらこの先も世界が元に戻る見通しは立たない。「例外」のように考えていた毎日が実は「本番」なのだという気持ちをもって、楽しい記憶の残るような1年に来年はしたい。

違和感がないという違和感

 京大に着任してから最初の2週間が経った。つくばから京都へ引っ越して中0日で初出勤で、生活も仕事も何もかもが一気に変わって、脳が適応するのに精いっぱいで、夢の中にいるかのようなフワフワした2週間だった。ようやく仕事環境の整備や、家の片付けも一段落が見えてきて、やっと新天地での現実が始まった心地だ。

 過去の記事で書いたように「異動直後の違和感は今しか味わえないからすぐに書き留めておくべし」という考えがあったので、違和感があれば(書ける内容であれば)この場に書き残しておこうと思っていたのだけど、今のところ、驚くほど違和感がなくて、そのことが一番の違和感かもしれない。

 もちろん、職場の雰囲気も、仕事の進め方も大きく変わったのだけど、どれもこれまでのところ大体予想通りの変化で、すんなりと受け入れられてしまっている。一番予想通りで嬉しかったのが、京大の雰囲気が自分にはやっぱり合っているな、と感じられたことだ。赴任して最初の数日は事務手続きや挨拶回りでキャンパスのあちこちを訪ねて回っていたのだけど、歩いているだけでワクワクしてしまうし、ここでこれから働けるのだ、ということにニヤニヤしてしまった。具体的に何がよいのかは簡単には言葉にできないのだけど、京大は自分が楽しい大学生活と充実した研究生活を計9年間もおくった場所なので、やはり「戻ってこれた」という気持ちが大きいのだと思う。事務周りの自由度に関しても、どことも雇用関係が無いことにされて色々と融通が利かなかった学振特別研究員という立場から、会社員時代以来5年8か月ぶりの正規雇用となり、格段に身動きがとりやすくなった。研究費の申請や各方面への発言をオフィシャルな立場で堂々とできるのは嬉しいし「やっとか」という思いだ。一方、その裏返しでもあるのだけど、オフィシャルに大学の一員になったことで、学内の事務や通知で飛んでくるメールの件数の多さとそのメールの読みにくさ(用件を先に書いてくれないので捨てていいメールかどうかが分かりにくい)にはちょっとうんざりしている。これは「今しか味わえない違和感」かもしれない。

 今までは「組織のため」よりも「自分のため」がどうしても優先しがちだったけど、オフィシャルかつ責任のある立場に立たせてもらって、これからは「組織のため」のウエイトも増やしていかなければと思う。一方で、自分の研究に脂がのるのもこれからなので、そこにもしっかりとリソースを割けるよう努力したい。それからこれは抱負でもあるのだけど、学生にとって親しみやすい教員になりたい。前所属(産総研)での反省点の一つは、自分のことに没頭しすぎて、話しかけづらい雰囲気を作ってしまっていたのではないかということだ。話しかけられれば喜んで議論や相談に乗るのだけど、こちらからあまり話しかけないし、忙しそうに(見えるフリを)していて話しかけづらい、というのがあったと思う。自分は放っておくとそういう態度になってしまうので、意識して話しやすい雰囲気を作ることを忘れないようにしたい。

 先に書いたように、この2週間は環境への適応に消費して、本格稼働するのはこれからなので、まだ味わうべき感想はほとんど味わえてないんじゃないかなと思う。オフィシャルな身分を得たことに加え、意外にいろんな人がここを見ていることが最近分かってきたので、あまりあれこれ自由に書きづらくなってきたのだけど、その時々の感情や考えが失われる前に記録しておく場所としてこれからも細々と続けたい。