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あの人に出会ってなければ自分はどうなっていただろうか

自分が今なぜここにいるのかを振り返ったとき、他人の存在が起点となった出来事が多いことに気づく。自分の人生の可能性は、自身の努力と選択で広げてきたと考えてしまいがちだけど、実は自分自身ができるのは、既に存在している可能性を「伸ばす」ことに過ぎない。自分がいかに一生懸命やってきたと考えていても、結局自分ができることは「その時の自分が見知りできる範囲でベストを尽くすこと」でしかないからだ。

 言い換えると、それまでの自分が見知りえなかった新たな可能性を「広げる」には、外からのインプットがなければならない。「外からのインプット」にはいろいろある。映画や本との出会いだったり、人によっては事故とか災害とかかもしれない。けれど、人生の可能性を広げてくれる外からのインプットとして、最も頻度が高くて影響が大きいのが、他人との出会いだ。そして、丁寧に振り返っていくと、自分で選択したと思っている人生の岐路においても、多くの場合その根底には初めにその選択肢を可能性として提示してくれた他人が存在している。例えば自分がこれまでに所属してきた組織(中高大学・会社・部活・バイト・研究室など)や、これまで自分が取り組んできた仕事も、最後の選択こそ自分でしたものの、そもそもその選択肢がその時に机上にあった理由をたどると、だいたい誰かの存在に行きあたる。自分の人生は、他人との出会いの繰り返しで出来上がってきたことに気づく。

 そして面白いのが、他人との出会いの多くが偶然だということだ。「偶然」と「必然」を厳密に言い出すと哲学的になってしまうけど、ここでいう「偶然」は「納得感がない」と言い換えることができる。自分の努力や選択には納得感がある。今から見れば「あのときああしておけばよかった」という過去の自分の選択があっても、それは「その時の自分が持っていた情報量と精神状態ではそうするしかなかった」という点では納得するほかなく、「人生がもう一度あってまた同じ場面に差し掛かっても、同じことをやっていただろう」と思える点で、必然感がある。対して、人との出会いは、自分のコントロール外で起こるイベントであり「なぜあの時あの人に会えたのだろう」「人生がもう一度あっても同じように会えただろうか」と考えても、ほとんどが納得感のある説明に至らなくて、「あの出会いは偶然だった」としか言いようがないケースだ。なので、「あの時ああしてなければ人生どうなっただろうか」と真剣に考えることはあまりないし考えても意味が無いと思うけど、「あの時あの人に出会ってなかったら人生どうなっただろうか」は、本当に起こりえた現実味がある話として深刻に考えてしまう。自分の人生を左右するレベルの重要人物が現実にいるのに、その出会いには納得感も必然感もなく、偶然としか説明ができない。恐ろしくて、面白いことだと思う。

 普段は、日常的に色々な人と出会いながら生きている中で、その偶然の影響力の大きさを意識することは少ない。そして、なんとなく自分の努力と選択で人生を前に進めている気になって暮らしている。でも、冷静に過去を振り返ると、「この人がいなければ今の自分は無かった」という人が何人も頭に出てくる。その人たちに直接そのようなことを伝えたことはほとんど無い。そもそもこんなことを伝えられるような仲ではない、ほとんど話したことがない人だったり、一度しか会ったことがないような人が、自分の可能性を広げてくれた重要人物だったりする。広げてくれた可能性の重要性に気が付いたころには時間が経ちすぎて疎遠になってしまっていることもある。自分自身も、気が付かない間に、他人の人生を左右するようなきっかけを与えていたことがあったのかもしれない。いちいちそれに感謝して生きるというのはさすがに大げさだと思う。けれど、「他人との偶然の出会いの繰り返しが人生の枠を作っていて、自分はその枠の中で生きているだけである」というのを日ごろから意識しておくことは、他人への敬意を欠かさず、偶然を可能性に変える機会を増やすという点で、重要なことなんじゃないかなと思う。