yokaのblog

湖で微生物の研究してます

「やらない」の先にあるものは何だろうか

 昔から「やること」よりも「やらないこと」を決めるのが苦手だった。性格的に、寄り道だと分かっていても、気になってしまうと一通り納得いくまで進んでみないとどうしても気持ちが収まらない。なのでビシバシと「やらない」選択を決めて効率よくゴールに向かっていける人に比べると、どうしても仕事が遅い。このことはずっと自覚している(けどそんなに直す気もなかった)自分の弱点だった。

 ところが最近、歳を重ねて経験値が溜まってきたこと、教員になって仕事の種類が増えたこと、親になって仕事に回せる時間が減ったことが重なって、「やらない」選択を下す(というより下さざるをえない)ことが増えた。何かに誘われたりお願いされたりしたときに以前よりも迷いなく断ることが増えたし、学会や研究会も以前ほど熱心にあれこれ参加することはしなくなった。研究でも自分の興味のままにどこまでも解析するのではなく成果物(論文)の分量に合わせた解析深度になるように「やらないこと」を選ぶようになった。細かいところでは文章を見直してチェックする回数とかも減った。以前と比べると自分の「納得感」や「こだわり」を追究するための時間を過ごすことが減って、結論や結果を出すまでの時間は早くなった。

 「捨てるものを捨てられるようになり、余計なことを考えずに前に進めるようになった」ことは自分にとって進歩だと思う。一方で、忙しい日々に流されるように「やらない」選択を次々と下し、だんだんそのことに慣れ、抵抗心が無くなっていくことに、もっと恐怖を感じなければならないのではないかと思うことがある。

 「納得感」や「こだわり」は自分がこれまでとても大切にしてきた感情だ。興味の赴くままに視野を広げ、時間がかかってもこだわりを貫いて納得のいくまで追究を続けることが、良い成果につながると思っているし、実際にこれまでそうだったし、もしそうではない場所があればそこからは距離を置くようにしてきた。最初に「弱点だと自覚していたけど直す気がなかった」と書いたけど、これもそういう理由で、「弱点だと分かっていればよくて、直す必要はない」と信じていた。それでこれまでうまくやってこれていた。

 なので、「やらない」選択に慣れていくうちに、自分が大事にしてきた「納得感」や「こだわり」への追究心が不可逆に薄まってしまうのではないかという恐怖がある。「やらない」選択を下すことが「気持ち悪い」から「当たり前」になっていけば、以前の「やらないと気持ちが収まらない」というモチベーションに突き動かされて到達できていた境地にはもしかすると二度とたどり着けなくなるかもしれない。

 これまでは自分に大きな心の変化が起こったときは、納得のいく説明がつくまでそのことを考えて理解することでそれを受け入れてきた。でも今は、すごい速さで忙しい毎日が過ぎていく中で、自分の変化について深く考え消化しきるところまで追いついていなくて、心の底からの自信が持てていない。「やらない」選択を下しつつ、目先の毎日は楽しく順調にこなせている気がしている。だけどそれが「納得とこだわり」で築いた自分の過去の貯金を食いつぶして成り立っているのだとしたら、そのことには早く気が付いて軌道修正をかけなければならない。