yokaのblog

湖で微生物の研究してます

北海道⇒スペイン⇒授業⇒芦ノ湖⇒締切ラッシュ⇒韓国⇒・・・

 札幌での陸水学会からバルセロナでのSAME18に参加し、帰国翌日に授業、その翌日から2泊3日で芦ノ湖を調査し、京都に戻って締切の山と戦ったあと韓国微生物学会での招待講演、という狂ったスケジュールをこなした。あまりにも忙しくブログを書く暇がなくて、色々ありすぎてとても全部書ききれないので簡単に振り返る。

 まずは北海道大学で行われた陸水学会。この学会には学部生時代からお世話になっていて知り合いも多く、久しぶりに会う人もたくさんいて、会場でも常に誰かと近況報告をしあっているような感じで楽しかった。また今回は陸水物理学会のセッションがあって、調査でお世話になっている人の発表もあったので参加してみたのだけど、意外とまだ分かってないことが多くてまだまだ新しい発見もあって、なかなか面白かった。水文学っぽい研究は自分は結構好きかもしれない。今後微生物の研究と結び付けるような展開がありそうなら是非挑戦してみたいと思った。

 残念だったのが、このあとのスペインの学会と日程が一部被ってしまったことだ。今回は陸水学会にギリギリまで参加するため、北海道から直接香港に飛んで、そこからバルセロナに向かうという強行スケジュールを組んだ。自分の発表はポスターだったのだけど、コアタイムで30分だけポスターの前で発表した後、急いで会場を後にし、初めての新千歳空港国際線ターミナルへ向かう。ターミナルには日本人はほとんどおらず、9割以上が北海道に旅行に来た海外の人たちだった。そこから香港、香港からバルセロナは予定通り。空港からホテルまでも、前回のスペイン出張のようなトラブルなく順調にたどり着いて、一休みしてから夕方からの学会のレセプションに参加。

 2年前ののエストニア大会よりも明らかに人数が多く、会場もギチギチで、臨時でオンライン配信の別部屋が用意されるほどの盛況ぶりだった。会場は海岸沿いの会議場で風光明媚な場所にあった。ここで6日間、朝から晩まで12分ずつトークがびっしり埋まったスケジュール。もう少しポスターの人数を増やしてトークには余裕を持たせた方が良いのでは?とも思ったけど、思っていたよりもみんなちゃんと時間を守って発表してくれたおかげで休憩時間が大幅に削られるような事態にはならず。短時間で効率よくたくさんの話が聞けたのは良かったけど、とても疲れた。

 この学会に来るのはヨーロッパの研究者が中心で、共同研究しているチェコやスイスのメンバーと直接話ができたし、知り合いになりたいと思っていたスペインのグループとも色々話ができて、互いのデータが揃ったら共同研究の機会を模索しようという話にもなった。中日の午後は会場で合流した日本人のメンバーと市内をひたすら歩くツアーでサグラダファミリアグエル公園を見に行った。近くで見るとものすごく細かいところまで凝っていて迫力があった。

 自分の発表はまだ未完成の新ネタの発表で大した内容ではなかったのだけど、口頭でやらせてもらえたので、これまでの自分の研究の内容も踏まえた内容にして、存在感をアピールしておいた。この学会も10年前からほぼ毎回参加しているので、「良く分からんけど日本からいつも来て湖の話をしている奴」くらいにはみんなに知ってもらえているのではないかと思う。また共同研究者が琵琶湖の話を結構持ち出してくれたこともあり、"Lake Biwa"はRimov reservoirとかLake ZurichとかLake StechlinとかLake Mendotaみたいに、前置き無くても定番研究フィールドとして通じる場所として認知されつつあると感じた。

 そして最終日、なんと自分の研究室の学生が最優秀発表賞をとって、めでたしめでたし!・・・ということで、次の移動日はいつものようにプレ時差適応で朝3時に起きて荷造りをしていたのだけど、そこで携帯が鳴って、なんと飛行機が8時間半遅れという連絡が。航空会社はキャセイパシフィックで、同じ航空連合のフィンエアー経由でヘルシンキ経由の便に変えてもらう手段がありそうな状況。あまりにも前回のスペインで起こったのと同じパターンすぎて、前回を踏襲し、キャセイのライン窓口に連絡を入れつつ、現場での交渉の可能性にかけてまだ真っ暗な街を空港に向けて走った。ところがライン窓口は前回のように返事を返してくれない。調べてみると香港付近の台風が原因で世界中から香港に向かう飛行機が遅延していてカオス状態になっているようで、窓口がオーバーフローしているみたいだ。そうこうしているうちに空港に到着したので、キャセイの窓口が開くのを待って交渉に臨むも「今回は全世界で遅延が発生しているので振替は不可能」という回答。食い下がったけど上の人が出てきて一蹴され試合終了。結局バルセロナ空港で朝から晩まで約12時間過ごし、ようやく飛んだ香港便も遅れに遅れ、香港に着いたところで、そこから翌日早朝の振替便までさらに10時間空港で過ごす羽目に。香港空港は端から端まで歩いて、どこに何があるか大体学習した。その中で良い感じの作業スペースがあったので、夕食後はそこに張り付いて、週末の3連休にちゃんと休める状況を作り出すことを目標にして、ひたすら翌週締め切りの書類を仕上げていた。で、午前2時過ぎにようやく大阪行きの便への搭乗が始まったのだけど、今度は飛行機に乗った後に全然飛ばなくて、またまた遅れに遅れて、日曜の昼には関空に到着していたはずが、結局月曜の昼前の到着になった。スペインを出る3日くらい前から時差ボケプレ適応で睡眠時間を調整していて、機内での睡眠プランも完全に考えてあったのに、ほぼ40時間、週末を全て飛行機か空港で過ごすというカオスに巻き込まれて、全ての計画が破壊されて帰ってきた。

 で、翌日は本部キャンパスで授業、でその翌日から芦ノ湖への調査出張というクレイジーなスケジュール。ボロボロの体で何とか90分の授業をこなして、調査準備して、翌日早朝からレンタカーを借りて、高速道路で箱根へ向かう。午後に箱根に到着して、翌日が調査だったのだけど、ここでも台風に邪魔され、朝から爆風で余裕で強風域に入っている状況。ここまで来て引き下がるのはあり得ないので、傭船先の船長に「行けるところまで行ってほしい」とお願いして船を出してもらうも、風向きが悪く、最深部は波が高すぎて危険ということで近づけず。仕方なく少し手前の風裏でほぼ同レベルの水深がある地点で妥協して、そこで何とか調査を開始。

水深40mくらいで、今まで調査した中でも一番浅い湖なので、あっという間に終わるはずだった。が、採水も後半にさしかかったところでトラブル発生。なんと採水器の蓋を閉めるための紐が切れてしまった。「こんなこともあろうかと」と予備パーツの袋をガサガサするも、ちょうど予備を持ち合わせていない場所が切れてしまっていることに気づく。詰んだかと思ったけど、船上にあるクーラーにかかっていた荷札の紐と、偶然予備で持ってきていた錘に付属していたカラビナを使って応急処置をして、何とか調査再開。これで蓋が閉まった時は本当に安堵した。

時差ボケと荒波の中で修復作業をしていたせいで一気に船酔いしてしまって、吐き気をこらえつつなんとか取りたい水を全部取って帰還。楽チンな調査だったはずが、なかなか過酷な内容になってしまって、池田湖同様、終わった後は放心状態になった。

あとはいつものように宿(コテージ)に戻り、そこに濾過機材を展開して濾過を開始。こちらはトラブルなく順調に終わって、翌日は荷造りしつつ、大涌谷を見学して帰った。どこもすごい人で、しかも平日だったからか、京都以上に外国人観光客だらけで、途中で入ったコンビニではほぼ全員外国人で自分も英語で接客されるありさまだった。

 京都まで運転して戻ってきて、一息・・・と思いきや、この3週間オフィスを離れていたツケで、裏で溜まっていた締切たちが山のように待っている。ただ「3連休は仕事しちゃダメだ」という気持ちで、香港空港で結構頑張ったおかげで、週末はほぼ仕事せずに家族と過ごすことができた。で、翌週。初日はメールを返して、やることを整理してメモに書きだすだけで1日が終わるくらい仕事が溜まっていた。その週は長期不在で先送りにしていた打合せやイベントがびっしり入っていて、その合間に挟まってくる締切に間に合わせて作業をし続ける日々。それに追われていたら昼も夜も関係なく一瞬で終わって記憶があんまりない。

 でその翌週は、ようやく、ほぼ1か月ぶりに1日オフィスにいられる日々がやってきて、メモに書きだして先送りにしてきたタスクを1つずつ潰して消していく日々。本当にいろんな種類の仕事があって、書きだした仕事を眺めるだけでも、研究室関係、学会関係、査読関係、調査関係、報告書関係、申請書関係、共同研究関係(国内・海外)、人事関係、施設関係、広報関係、保険関係、学生関係、授業関係、コンプラ関係など、本当に種類が多い。よく研究環境改善施策のアンケートで「どの仕事が忙しくて時間をとられていますか」というのを聞いてくることがあるけど、何かが特別忙しくてそれを減らせばよいという状況ではなくて、この「あまりにもいろんな種類のことを教員がやらなければならない」という状況そのものを改善しないと難しいよな、といつも思う。

 メモに書きだしたタスクが半分くらい片付いたところで、今度は韓国出張。新千歳に続いて、神戸空港国際線ターミナルを使うというレアな経験をした。新しいけど本当に小さいターミナルで、拡張する気は全然ないんだなというのが分かった。出入国審査も税関も電子化されてなくて、久しぶりに日本のスタンプをパスポートにもらった。

今回はスウォンで開かれた韓国微生物学会(MSK2025)に招待講演で参加した。昨年以来の韓国だけど、近いし時差無いし、文化的にも違和感が少ないしで、行きやすい海外だ。一方で今回も感じたのが、街中はとにかくタワマンだらけで、あちこちにコンビニがあって、道路は片側4車線も5車線あって、たくさんの人が快適に住めるようにすることに最適化された街だなあということだ。この点はごちゃごちゃしてて道も狭い日本とは全然違う。

今回も前回同様、インハ大学のCho教授の招待で、研究室のメンバーや、その周辺のメンバーとの交流で毎晩美味しい食事を食べさせてもらって最高だった。名前は知っていたけど会ったことが無かった研究者にも会えたし、飲み会で初めて知り合った韓国の方とも仲良くなれたので良かった。印象に残ったのが、学生がとても礼儀正しくて気が利くということだ。まめに挨拶してくれて、こちらの導線や食事を気にかけて先回りして動いてくれるし、食事が終わりに近づくとサクサクと会計を進めてくれて、2次会の参加人数を把握して予約を入れてくれて、シームレスに次の店を案内してくれた。自分が学生の頃もこれくらいは当たり前にやっていたと思っているけど、今の日本ではこういうのほぼ無くなったなーと思う(老害)。気を遣う方は疲れてしまうのではないかと少し申し訳なくなったけど、とてもありがたく感心したので、自分自身も礼儀正しくふるまうことの重要性を再認識した。

会議は結構立派なコンベンションセンターでの開催で、あちこちに立派なパネルが立っていて、運営の人員もたくさんいたし、専属カメラマンもいたし、スポンサー企業の数もブースの大きさも日本よりも全然大きいしで、かなり金がかかっている感じの学会だった。企業ブースを全部回ると景品がもらえるとかで、企業の人たちが学生の相手でずっと忙しそうだったのが日本と全然違うなと思った。半分以上の発表が韓国語(スライドやポスターは全部英語)で、日本で行われる学会に参加する留学生の気持ちを味わうことができた。韓国の微生物研究の雰囲気を現場でつかめてとても良い機会になった。

 で、1カ月以上の出張ラッシュを終えて、ようやく夜にブログを書けるくらいの時間ができて、今これを書いている。まだまだタスクメモは半分以上残っているし、来週も3件ほど大きめの締切があるし、この1カ月ほとんど論文をチェックできてなくて「後で読む」リストが今までにない程に膨れ上がっているし、再来週にようやく「夏休み」がとれてそこはちゃんと休まないといけないと思っているので、自分の「本当の仕事」に手を付けられる日はまだまだ先になりそうだ。

摩周湖調査

 国内の大水深調査シリーズの中でも屈指の難度と位置づけていた摩周湖の調査がついに実現した。摩周湖のデータ自体は、博士課程論文のデータにも入っていてすでにpublishされているのだけど、この時は自分は採ってきてもらったサンプルを共有してもらう立場で調査には参加しておらず、微生物組成の解析も16S rRNA遺伝子アンプリコンシーケンスのサンプル量・解像度でしか行えていなかった。創発事業で進めている、全国の大水深湖のディープなショットガンメタゲノムデータを集める研究の一環で改めて調査に行きたいというのはずっと考えていたのだけど、摩周湖は無許可で立ち入ることができず、継続的に行われているモニタリング調査の枠組みに参加させてもらうのが唯一の手段で、長らくその機会を模索していた。そしてついに、色々なご縁があり、8月末に行われた今年度の調査への同行が叶った次第だ。

 摩周湖の調査が困難な理由は湖畔に道路が一切なく、標高差200mの山道を機材やサンプルを担いで上り下りするしかアクセスの手段がない点にある。本調査をリードしているのが、国立環境研で行われてきた調査を引き継いで、地元の自治体が中心になって立ち上げた「摩周湖環境保全連絡協議会」なのだけど、そこが出しているYouTube動画を見れば、調査の険しさが分かるかと思う。

準備からして今までの調査とは全く異なっていて、この調査のために、背負子やソフトクーラー、クマ鈴などを調達。背負子に50Lの折り畳みコンテナを装着して機材やサンプルを輸送する作戦だ。

 出発1週間前ほどから天気予報を気にしながらソワソワしていたのだけど、悪い予報が変わらないまま出発の日を迎えてしまう。調査ができない可能性も十分にありえる状態で北海道に向かうことになり、あまりテンションの上がらない初日を過ごした。翌日は準備と協議会の方々との打ち合わせがあり、道中の展望台から眺めた摩周湖がこちら。

 京都が連日35℃を超えているなかで、ウインドブレーカーが必須な寒さと風。湖面は霧で一切見えない。重い気持ちのまま、早朝出発に備えて早めに寝床につく。

 翌朝、集合場所へ向かうと、協議会の方々をはじめ、地元や全国の研究機関や大学から集まった研究者、取材で来た記者など、総勢30名以上の大隊。採水器などの機材を運搬してくれる方のほか、機材のメンテナンスを担当される方なども同行していて、この調査が本当に多くの方々の尽力によって成り立っていることを実感した。雨も風もだんだんひどくなるという予報で、午前勝負で湖岸に降りるという方針に決まる。

 いよいよ崖下りが始まり、クマ除けの音を出しながら下っていく。場所が特定できる写真は載せてはならないので、差し支えないものを1枚だけ載せると、このような感じで、はるか下に湖面が見える急斜面を下っていく。

始まってすぐに、想像以上の斜度に、「あ、これは帰りはやばいな」ということに気が付く。湖水を持って上がるので、行きより帰りのほうがしんどいはずだ。コケて怪我して動けなくなるのが最悪なので、足を滑らせたりひねったりしないよう、注意しながら下っていく。無心で下っていると、大体想像通りの時間と距離で湖岸に到着。この点は少し安心した。すでに沖合には白波が立っており、調査が予定通り行えるかは難しい情勢。今回は船舶免許保有者ということで、自分がメインの船の操船を任されることになっていたのだけど、このように荒れた状況で出なければならなくなることは想定しておらず、緊張が高まる。たくさんの人たちが準備に参加してくれ、あっという間に準備が整い、離岸する。

ここからは全く写真を撮る余裕がなかった。出船してすぐに、大きな向かい波をまともに受けて全員びしょ濡れになり、波を1つ1つ見ながら運転しないとダメな状況であることに気づく。そこからは3時間ほど、常に波を読みづつけて操船し続ける状況だった。全速力が出せない中、数十分かけて何とか採水地点にたどり着き、CTDでの鉛直環境プロファイルの測定に続き、採水を開始する。「記録に残さねば」という一心で、唯一撮った採水中の写真がこれ。

この写真を撮った直後にすぐに船が横を向いて危ない状況になったので、やはり舵から手を離してはならないということで、そこからはひたすら船を安定した角度で波に当て続ける操船を続け、採水作業を見守った。

 ところが作業も中盤に差し掛かったところで、風雨が強くなってきて、だんだん船を採水地点にとどめておくことすら難しい状況になってきた。波もさらに高くなってきて、50波に1波くらい、恐怖を感じるレベルの波がぶつかってくる状況になった。乗っている皆が「ここまで来たのだからできるギリギリまで採水を続けたい」と思っていて、自分も同じ思いだったけど、「撤退の決断は船長の自分の責任で下さなければ」という思いで状況を見極めていた。もしこれが良く知っている湖であればもう少し粘ったかもしれないけど、ここは摩周湖だ。もし何か起これば、天候的にも救助は望めない可能性が高く、生きて帰れない可能性が高い。由緒ある摩周湖モニタリングの歴史に自分の手で幕を下ろすわけにはいかないと思い、途中で撤退を決断した。

 で、帰りが本当に怖かった。追い波になるのだけど、船の速力が遅くて波に追い越される状況で、船が波乗り状態になるブローチングが起こって舵が効かない。何度か船が横滑りしたけど、そのときに真横から船べり以上の波を受けていたら一発アウトだった。全速力で戻りたい気持ちを抑えて、後ろからくる波を1つずつ見ながら、船の角度と速度を1波ずつ調整しながら少しずつ前に進む。岸が近づいてきて待っている人たちが見えたときは本当にホッとした。途中で撤退を決断して正解だった。人生の操船経験値が一日で10倍くらい増えたと思う。

 乗船組は必死の3時間だったけど、大多数のメンバーは雨風強まる中、岸に残って待ってくれていたわけで「やっと帰ってきたー」という感じだった。岸に戻るとすぐに撤収が始まり、荷造りをして、帰路の登りが始まる。予定通りの採水が行えなかったので想定よりもサンプルの湖水の量は減ったものの、それでも十数Lの湖水と保冷剤を積んだ推定30kg弱の背負子を背負って上ることに。あまりの重さで肩の血が止まるので、ところどころで、↓のような体制で、背中で荷物を支えて、肩に血を流しながら上がっていく。荷物が重すぎて一度バランスを崩すと終わりなので、足元を見ながらぬかるんだ道を踏み外さないように慎重に登った。

帰りはみんな余裕をもってゆっくりしたペースで上っていたこともあり、恐れていたような動けなくなるほどの疲労は無くて、意外なほどすんなりと登りきることができた。むしろ下りのほうが怖くて大変だったという印象だ。予定通りに採水できてたっぷりサンプルがとれていても何とかなった気がする。自分の体力に自信が持てて嬉しかった。

 ここからはいつもの調査と一緒だ。宿に戻って、いつもの濾過システムをセットアップし、ポンプでフィルターに湖水を流し込んでいく。交通費やかかわった人達の数を考えれば、1リットルあたり5万円は軽く超えそうな水だ。ロスの無いよう、全てフィルターに流し込んでいく。超貧栄養湖かつ採水量が予定より少なかったこともあり、あれだけ頑張って取った水がたった5つのフィルターにまとまってしまった。この努力が結晶になる感じは結構好きだ。翌日、サンプルを機材たちと一緒に冷凍で京都へ送り、ミッション完了。最後は阿寒湖を通って空港へ向かいながら北海道の涼しさを満喫し、灼熱の京都に戻った。

 帰りの道中、今回の調査が新聞記事になっているのを知ったのだけど、記事にある通り、今回は悪天候の影響で透明度が例年よりもかなり低い(それでも10mは余裕で超えている)結果だった。雨の影響で微生物量にも影響出てるかなと思ったけど、ラボに戻って細菌の検鏡やカウントをしてみたところ、そこまでの影響は見えなかった。微生物量は琵琶湖より1桁低く、貧栄養湖の特徴が出ていたし、面白いのが、あまりにも水が透明なせいで、表層は糸状細菌の世界になっていて(おそらく強すぎる日光の影響)、外洋みたいに温度躍層下の水深50m付近にシアノバクテリアのピークが見られる。これらは博士課程の時に採ってきてもらった、かつての摩周湖のサンプルを観察した時と同じ特徴だ。

 なので天気が良ければ、いつものように真っ青な水で、20mを超える透明度が拝めたのではないかと思う。大荒れの摩周湖での操船も貴重な経験ではあったけど、次に行く機会があるなら、是非摩周ブルーを間近で見てみたい。そして、ここまでの貧栄養湖のメタゲノムデータは世界的に見てもほとんど報告がない。これから得られるシーケンス解析の結果がとても楽しみだ。 

 今回のモニタリング調査、本当に多くの人の労力がかかっていて、摩周湖が地元にとって重要な存在であるということがとても伝わってきた。一方で調査継続にあたって財源の確保が難しい状況が続いているとのことで、協議会ではクラウドファンディングでの調査費の寄付も募っている。今回もクラウドファンディングの返礼品として調査に同行された方がいたのだけど、このような寄付が集まるのは、摩周湖を大事に思う機運があってこそだと思うし、そのような機運を作るために重要なのが、こうしたモニタリングの継続なのだと思う。だからこうした機運は、一度途絶えてしまうと、復活させるのはとても難しいことではないかと思う。これまで長年続いた調査だからこれからも安泰という訳ではなく、「絶やしてはならない」という意志と、多大な労力と費用の支払いの上に成り立っているものなのだということを、実際に参加してみて感じた。改めて、非常に貴重な機会を頂けたことに感謝したいし、自分もこの機運をさらに高める一助になるような研究成果を出したいと思った。

“Pitch and Chat” 形式

 今日も日帰りで東京出張。JST創発事業のイベント「融合の場」に参加するためで、今回は自身の研究紹介のほかに、昨年の微生物生態学会で主催した創発研究者のネットワーキングイベントの事例紹介で登壇した。このイベントで採用した開催形式がなかなか良くて、その紹介のためにスライドを作ったので、ここでも紹介したい。

名付けて”Pitch and Chat”形式。コロナ中のオンライン学会のブレイクアウトルームに着想を得たもので、まず発表者を4名ずつのグループに分け、各2分ごと、自分の研究を紹介するショートトークをしてもらう。その後、各発表者は部屋の四隅に設けられたブースに分かれ、聴衆は各ブースを自由に行き来して質疑応答を行う。これを4ラウンド繰り返すことで、100分のスロットで16名の発表者全員が会場の全員に対して研究紹介をする機会を設けつつも、専門レベルの深い議論をする時間もしっかりとることができる。聴衆の立場でも、自分の興味のある発表者のもとを自発的に訪れることになるため、参加意識が高まるし議論もはじめやすい。

 発表者の立場からは、2分のショートトークだけ準備すればよいので負荷が少ないというメリットがある。またその分、企画者からしても、発表者への声かけがしやすくて人を集めやすい。時間管理もしやすくて、ショートトークがそんなに長くなりすぎることはないし、万一時間が押してしまっても、各ラウンドのディスカッションを時間通りにクローズしてやれば必ずスケジュール通りに進めることができる。

 懸念としては、人気ブースとそうでないブースで人数の差ができてしまうことだったけど、その点を考慮してグループ分けを行うことや、十分な人数の聴衆を確保することでクリアできた。確かに数名しかいないブースと、立ち見が出るようなブースが出てしまうのだけど、ポスターセッションがそうであるように、聴衆がたとえ1名であっても十分に深く意義ある議論はできるし、逆に人数が多いブースでは、先端的な議論が交わされているのを横で聞きながら研究の最前線がどこにあるかを理解する、というような参加のしかたもできる。あとは、それなりの広さがある部屋でないと隣のブースとの距離が近すぎて物理的にやりづらい、ということはあるかもしれない。

 総じて、発表者、聴衆の双方から好評で、企画者としてもやりやすく、是非リピートしたい開催形式だ。もし今後ワークショップを主催する人がいれば、是非参考にしてみてはと思う。

頑張った

4月の年度明けごろから「これ本当に終わるんか?」という勢いで色々な締切が立て込んでいて、今週がピークになることがかなり前から分かっていた。自分は夏休みの宿題を7月中にほとんど片づけて8月はエンジョイする側で、会社員時代も始発で出勤してでも徹夜を避けていたタイプなので、今回も色々前倒しで、パーキンソンの法則に抗い、出せるものは1週間でも2週間でも早く片付けてどんどん出し続ける、というのをほぼ3か月続けてきた。それでも段々としわ寄せが消化しきれなくなり、最後はどうしようもなくなって、なんとか徹夜は避けたものの、連日深夜に出勤するところまで追い込まれた。今その締めとなる日帰り東京出張を終えて、ヘロヘロになって家に帰っている途中でこれを書いている。「本当に終わるんか?」と思っていたのが、頑張ったら本当に終わってしまったのだけど、これは前例にしてはいけないレベルな気がする。労働時間というより、常に締め切りに追われている感じが疲れた。ちょっとリフレッシュしたい。

2025年6月琵琶湖調査

深水層の細菌が元気な時期がやってきたので、久しぶりの琵琶湖調査に行ってきた。だいぶ前からこの日に決めていたのだけど、暑すぎず寒すぎず風無しの調査日和。明日からしばらく悪天候の予報とのことで運が良かった。

今回は調査水深も採水量も少なかったのであっという間に終わった。最後にプランクトンネットを鉛直引きして緑藻とミジンコが大発生しているのを確認。植プラの画分はプレ研究で試してみたいことがあったので持ち帰って検鏡。

↑相変わらずMicrasteriasだらけ。でもよく見ると古参のStaurastrumやCeratiumやAulacoseiraも混ざって頑張っている↓

プランクトンネットの回収物をフィルターに集めると厚さ3mmくらいの抹茶せんべいが誕生した。

続いて細菌数をフローサイトメーターで測定。表層が2×10^6, 深層が1×10^6くらいでいつも通り。蛍光顕微鏡を見てみると分裂中のCL500-11らしきバナナ型細菌を確認することができた。今年も琵琶湖はいつも通りみたいだ。

やはり野外調査は癒される。ずっとこればっかり出来たら楽しいのだけど、今やっている研究は1回調査に行くだけで膨大なデータが出てきてすぐに処理する方がパンクしてしまい、調査ばかり行ってられないというのがなかなか難しい。

琵琶湖細菌のシングルセルゲノム解析の論文が出ました

筆頭著者での新作が久しぶりにISME Communicationsから出版された。この論文は昨年度までの3年間もらっていた科研費若手のメインとなる研究成果だ。琵琶湖ではこれまでロングリードを含めて散々メタゲノムをやってきて、細菌もそれに感染するウイルスについても、ゲノム情報は網羅的に得られているのだけど、肝心の「誰が誰に感染するのか?」という点に関しては、ゲノム情報だけから予測するのには限界があって、大多数のウイルスが「ゲノムだけ分かっていて宿主が分からない」という状況になっていた。このメタゲノムの限界に新たな技術で挑戦する、というのが「環境中のウイルスと細菌のゲノムをつなぐ」と題したこの科研費の目的で、もともとはMetaHiC技術を使って宿主ゲノムと感染しているウイルスゲノムの物理的接触を検出することでウイルスと宿主の紐づけを行う計画だった。ただ新たなサンプルにMetaHiCを適用するにあたっては実験条件の検討から始めなければならず、結果が出るまでに手数と時間がかかりそうなのが壁だった。そんな時にとある学会で、細菌のシングルセルゲノム解析の結果から感染しているウイルスゲノムを検出するという早稲田大竹山研からの研究発表に出会い、この技術のほうが実現可能性も解像度も高く目標を達成できそうだということで、共同研究させてもらえないかと持ち掛けたのが本研究の始まりだった。共同研究の計画が固まったが2022年のはじめごろ、朝採れの琵琶湖の水をもって新幹線で早稲田のラボにお邪魔して・・・とやっていたのが2022年夏から2023年冬の話、2023年の初夏にはデータ解析もストーリーも概ね固まっていて順調に進んでいたのだけど、ここからが長かった。
 苦労話は先の記事でも色々と書いたけど、とにかく論文を書くための、まとまって集中できる時間がなかなか確保できず、休日はできるだけ使わないようにしよう・・・と思いながら、終わってみれば結局いつものように、家庭の許可を得て休日や夜中に研究室に来て一気に書き進めた箇所がほとんどになっていた。ようやく初稿ができたのが2024年の5月、そこから共著者にコメントをもらって、追加解析などを加え、最終稿ができたのが7月。ここからPNAS->ISME Jと2発のエディターリジェクトをくらったのだけど、ISME Jに落とされたのは納得がいかず、rebuttalしたりして時間を浪費。rebuttalは結局失敗したけど、一応違うエディターがもう一度目を通してくれるところまではやってくれたようで、誠意は感じた。で、transferされたISME Commnで査読に回ったのが8月後半。10月に査読がもどってきたのだけど、査読者3名中1名がとてもネガティブ(しかも攻撃的)で、再投稿可のリジェクトを食らう。以前も書いたけど、自分は結構厳密に分析して厳密な文章でちゃんと論文を書いている方だと思っていて、査読にさえ回ればあとは高評価が得られてすんなりいくケースが多かった。今回も3名中2名の査読者は好意的で、ネガティブだった1名も、内容を否定というよりは、内容をきちんと理解してもらえず誤解に基づいて攻撃的なコメントを並べているような印象だった。ので、解析自体は直すところはほとんどなくて、「こちらの書き方が悪かったからきちんと理解してもらえるように書き直しました」という体で、負荷的にはそこまで大掛かり修正ではなかったのだけど、そうはいっても文章を全面的に入れ替え・書き換えるレベルだったので、フル集中できる時間がまとまって必要だった。ところが先日書いたように、ここで出張ラッシュと重なってしまって、論文にまったく手が付かない状況が3か月くらい続いて、年末年始の閑散期なってようやく手を付けられ共著者に回覧、何とか2月に再投稿。そこからさらに2か月後の4月に査読が戻ってきて、丁寧な対応が功を奏し、問題の査読者を概ね納得させることに成功。あとは微修正でエディター判断で即アクセプトかと思いきや、意外に3週間ほどかかって、その間に申請書や報告書の締め切りがたくさんあったので、業績に載せたかったのに載せられず、もしかしてもう一ラウンドあるのか・・・?とびくびくしていたところでアクセプトのメール。初稿からほぼ1年、データが揃ってからは約2年経っていて、とても長い道のりだった。
 研究の内容としては、当初の目論見通り、細菌のシングルセルゲノムと一緒にシーケンスされたウイルスゲノムを検出し、多数のウイルスの宿主を特定できたというものなのだけど、本研究のウリは、琵琶湖の過去のメタゲノムのデータをフルに使い、過去に構築されたウイルスやホストのゲノムを含めた解析や、メタゲノムリードを使ったウイルスの時空間分布の解析にも踏み込んだ点だ。そのおかげで、メタゲノムではどうやっても見つからなかったCL500-11のウイルスを特定し、さらにその時空間分布や感染率まで報告することができた。個人的にはこれで目的としては十分達成だったのだけど、もうすこしジェネラルな研究にしたいということで目を付けたのが、感染率が系統ごとに大きく異なるという発見だ。詳細は論文のFig7を見てもらえれば分かるけれど、簡単に言うと、常に優占する宿主(oligotroph)ではウイルスと宿主の頻度依存的な選択の結果、感染率が低く抑えられている一方、資源の供給に素早く反応するような宿主(copiotroph)では、ボトムアップの効果が大きく、ウイルスによる選択圧があまり効いておらず、結果として感染率が高い状況が観察されるという仮説を提案した。論文のタイトルもこの仮説をメインにして、その中でCL500-11のウイルスの発見にも触れる、という構成にした。こういう背景があったので、CL500-11を短い論文の中でうまく位置付けなければならず、その文タイトルになっているoligotroph vs copiotrophへの焦点が少しぼやけてしまった感もあるし、この内容に展開させるためにイントロをごまかしたところもあってそこが突っ込みどころになって査読でも厳しいコメントがあった。そのほかmicrodiversityの話題だったり、MDAの増幅バイアスや共感染の有無やウイルス検出の擬陽性を細かく検証したり、色々と厳密やろうとしすぎた&盛り込みすぎたところがあって、前の論文と同様、もっとシンプルにしていればすんなり通っていたのかもしれないな、、、という反省もありつつ、せっかくだからこだわりポイントは全部盛り込んでおきたい、という論文になった。
 ともあれ、CL500-11のウイルスも見つかって、科研費の当初の目的通りの成果が出せて良かった。この研究がうまくいったことで、すでに続編の第二弾のシングルセルゲノム解析のデータの解析も進めており、こちらも面白い結果が出てきている。やっと肩の荷が下りたので、切り替えて次の仕事に取り掛かっていきたい。

正しい情報にたどり着くコストが高くなっていく

 会社員を辞めて博士課程に編入学してからちょうど10年になった。辞めた当初は「会社員を辞めて研究に戻ってくる決断をした」というのが自分のアイデンティティの一角をなしていたけど、10年も経つとさすがにその感覚ももうなくて、自分はただの大学教員だと思っている。一方で、会社を辞めて戻ってきた直後に感じた「研究って本当に自分に合っているし楽しい」という気持ちは10年間経っても変わらず、あの時戻ってきて本当に正解だったな、と今でもつくづく感じている。で、この10年、世の中でも色々なことが起こったけど、特に近年の生成AI技術の急進歩と普及は、「自分には研究が向いている」という思いをますます強くするきっかけになっている。

 生成AI技術、本当に便利だけど、本当に厄介だと思う。「便利」の側面はみんな承知で、自分も英文やコードを添削してもらったりして、研究がとても捗っている。反対に自分が「厄介」だと思っている側面が、「情報の正しさを検証するコスト」をとてつもなく高くしてしまいそうだということだ。

 自分が好きな逸話の一つに「電卓が登場した当初、計算結果を信じられなくてそろばんで検算したい人のために、そろばん付きの電卓が存在した」というのがある。ここでのポイントは、電卓のアウトプットは、単なる数字なので、簡単にそろばんで検算できたということだ。だから、すぐにその正しさが検証できて(あるいはでたらめな電卓が淘汰されて)、電卓の存在は受け入れられた。生成AIの登場も、単純な用途に限定すれば、電卓の登場と状況が似ている。特に、英文やコードの添削であれば、出てきた英語やコードが正しいかどうかは、比較的簡単に検証できる。アウトプットが間違っていれば自分で直せばいいし、間違っていると指摘すれば修正案を生成してくれる。こういう使い方をしている限りは、生成AIは電卓的であり、とても便利なツールだと思う。

 一方で、より複雑な情報を扱わせようとすると、話が変わってくる。最近自分に起こった印象的な一件がある。それは環境中のウイルスの研究で良く使われる手法をまとめた文章を読んでいた時のことだ。4ページ程度の英文だったのだけど、ちょうど自分が論文を書く中で知りたいと思っていた情報だったので、結構かじりつく感じで一生懸命読んでいた。「なるほど、よくまとまっているなー」とか思いながら、最後のページに差し掛かったところで、なぜかゲノム解析の話から情報セキュリティーっぽい話題になって、「???」となった。英文で読んでいたこともあり、自分が知らない英単語の使い方があるのかとか、自分が文脈を追い切れてないだけでゲノム解析ツールの情報リスクについて語っているのかとか、色々考えながら何度か同じ個所を読み直してみるのだけどやはり頭に入ってこない。で、そこから、その文章が本当に唐突に情報セキュリティーの話を始めていて、ウイルスとコンピューターウイルスを混同した生成AIによって書かれた文章だということに気が付くのにはさらに数分を要した。気が付いたときは、自分が「無意味かもしれない情報を納得しながら十数分一生懸命読まされていたこと」に衝撃を受けて「人生で初めてのこの屈辱を忘れてはいけない」という気持ちにさせられた。さらに気持ち悪かったのが、そのことに気が付いた後ですら、書かれた文章のどこがテキトーに書かれていてどこが真実なのかが分からなかったということだ。もちろん自分は専門家なので、ウイルスに関して書かれている部分は一つ一つ調べれば正しいかどうかは分かる。でもそれだったら最初から自分で調べたほうが早い。そして、コンピューターウイルスについて書かれている部分は、自分は専門外なので、そもそも正しい情報がどこにあるのか、何を検証すべきなのかすらよく分からない。だから、この文章がAIに書かれたものと知らなければもちろん、知っていたとしても疑うのはとても難しい。

 この経験で感じたのが「それっぽい情報」を生み出すことができる生成AI技術の厄介さだ。「それっぽい」は「疑うのが難しい」と言い換えてもいい。こうなるともはや電卓の例えは使えない。検算があまりにも大変、もしくは検算の方法や対象が分からないような複雑な情報が出力されてくるからだ。それでいて、電卓並みに簡単に誰でも大量にアウトプットを生み出すことができる。つまり生成AIの情報は、生み出すのが簡単なのに疑うのが難しい。難しいことよりも簡単なことのほうがたくさん起こるので、「疑われないままの情報」が蓄積する状況が加速していく。「疑うリソース」を圧倒的に飽和させる量の情報が生み出され続けていて、正しいかどうかを判断するコストがこれまでになく上がっている、というのが今起こっていることだと思う。

 例えば、Wikipediaに載っている情報は、(誰でも編集できるという点では正しさが担保されているわけではないけど)十数年かけて人の手が入り続けて積みあがってきた情報であるという点では、それなりに信頼される情報源になっている。これを知らず知らずのうちに生成AIに書かせた文章で置き換える動きがあるとしたらどうなるだろうか。「それっぽい」疑うのが難しい文章が次々に生成され、そのなかには正しくない情報も一定の割合で含まれるだろう。そうなれば、間違いを正そうと誰かが検証して修正してくれるかもしれない。でもそれが、再びワンクリックで生成された情報に簡単に書き換えられてしまうとしたら、修正にかけるリソースもモチベーションもあっという間に枯渇してしまうだろう。情報を生み出すことよりもそれを疑って直すことのほうが圧倒的にコストがかかる。そうなると「それっぽいけど正しくない」情報の割合が増えていく。そうなれば正しくない情報をインプットしてしまう人の数も増えていくことになるだろう。「正しい情報を知りたい」という強い気持ちで情報に接しても、間違いの割合が増えれば、それだけ疑ったり調べたりするのに気力と時間を使うことになり、心が折れるのも早くなる。つまり、正しい情報にたどり着くコストが上がることになる。少なくとも今の状況では、Wikipediaを生成AIに任せることは良いアイデアのようには思えない。

 さて冒頭の話に戻る。辞めて10年経った今でも感じている、会社員経験を通じて学んだ大きなことの一つに、

世の中には「正しさベース」で動く世界と「納得ベース」で動くが世界がある

というのがある。世の中に数ある仕事のうち、設計とか開発のような具体的な「ブツ」を作る仕事は、「ブツ」そのものが成果物となり、それに対して対価が支払われる世界だ。倒れない建物、壊れない機械、バグらないソフトを作らないといけないわけで、そのためには設計の数式や、開発のコードが「正しく」なければならない。つまり「正しさ」が容易に定義でき、それに対して対価が支払われる。これが「正しさベース」の世界だ。

 一方で、その機械やソフトを設計・開発するための資金を調達する仕事になると、交渉や政治が必要になってきて、相手はブツではなく、人や仕組みになってくる。そこでは「経緯」や「感情」といった複雑な要素が入ってきて、「正しさ」は容易には定義できなくなってくる。そうなると「正しさ」よりも「納得感」のほうが価値判断基準として重みをもってくる。「正しさ」を追究するとコストも時間もかかりすぎてビジネスにならないので、直感的な「納得感」で判断を下すのが最適解になるということだ。世の中の多くの場所では、お金は「正しさ」ではなく「納得感」に対して支払われていて、それで経済が回っている。

 自分が会社員生活になじまなかった大きな理由の一つに、この「納得ベース」の世界とどうしても折り合えなかったというのがある。「納得ベース」で動く世界がある、ということを知れて理解できたことは自分にとって収穫だったけど、自分もそこに身を置きたいとは思えなかった。だからこそ、研究に戻ってきてから、「正しさを追究する」という科学の本分の価値や楽しさが身に染みて感じられている。

 生成AIの登場で「自分には研究が向いている」という思いを強くした、と書いた理由もここにある。疑うのが難しい情報で世界が飽和させられてしまう中で、正しさの追究に必要なコストがあまりにも高くなり、「納得感」を判断基準に情報をさばいていかないと回らない状況になってきている。さらに生成AIは正しさをさしおいて「納得感」のある情報を作り出すことにかけては、ほとんどの人間よりも精巧なアウトプットを生み出すことができる。「疑うのが難しい」情報を「大量」に供給する生成AIの登場は、世界を「納得ベース」に一気に傾けてしまう。まさに今の時代が、その入口にあたるのではないだろうか。

 今になって振り返れば、2019年が歴史上で人類が最も自由に国をまたいで旅行ができた時代だったのかもしれないと思う。今の世界情勢を見る限り、2019年のような時代がまた来ることは、残念ながらしばらくなさそうに見える。歴史と技術の積み重ねで、世界は良くなり続けるものなのかと思っていたけど、違うのかもしれない。同じように考えれば、もしかすると今が、歴史上で人類が最も低コストで正しい情報にアクセスできる時代だったと、後になって振り返られたりするのかもしれない。

 「正しい情報にたどり着くコスト」はこれから上がっていく。そのコストに押されて、「納得ベース」の価値観に偏っていった先、世界はどうなっていくのだろうか。自分の根拠のない予想と希望では、しばらくの間「納得させたもの勝ち」が行き過ぎたカオスで生きづらい時代があったあと、「正しさベース」の価値観が見直され、高くなりすぎた「正しい情報にたどり着くコスト」に向き合い、きちんと対価と敬意を払わなければならない、ということを言い出す時代がくるのではないかと思っている。

 自分には研究が向いている。それは、科学がその本分として限りなく「正しさベース」の世界だからだ。経済や政治が「納得ベース」で動いていて、それが重要で必要なのは分かっている。研究活動も人付き合いであり、研究費申請の審査をするのも人間なわけで、科学でも「納得ベース」の価値判断が下される場面があることは否定しない。それでも自分が好きで向いているのは「正しさベース」の価値観だ。だからこれから世界がより「納得ベース」に傾いていくのだとすれば、自分は今持っている気持ちをより大事にしたい。別の視点から見れば、世界がいかに「納得ベース」に染まろうと、科学研究をやっている限りは「正しさベース」の価値観にしがみつくことが許される。来たるカオスの時代を生き延びるうえで、研究者という職業は自分にとってシェルターのような居場所なのかもしれない。そしてそれを生き延びた先、「正しさベース」の価値が見直される時代が来るとしたら、科学に潤沢な対価と敬意が払われるような未来があるかもしれない。そう期待したい。