yokaのblog

湖で微生物の研究してます

大学の先生の本分は研究ではなく教育である

何を当たり前のことを言っているんだという話だけど、「大学の先生は研究者ではなくて先生なのだ」ということを改めて感じている。ある程度は想像していたけれど、当初の想像をはるかに超えて、学生を教える仕事は重要だし大変だし、本気で取り組むべきものだと感じている。想像を超えていた理由は色々とあるけど、学生に期待すべきものを自分が見誤っていたというのが一つだと思う。学生とは上下関係を排して対等に接するべきだと考えていたけど、そうではなく、むしろ自分が前に立って積極的に導かないといけない。先生の立場で学生に期待すべきは意見や成果ではなくまず成長であり、成長の先に成果や意見があるのだと思う。また導くべき強さや方向は十人十色であり、ユニバーサルな正解は存在しない。そこまで見通せていなかったという意味では、教育者となる自覚と覚悟が足りていなかった。

 研究より教育が本分であることをどう捉えるかは人によって違うだろう。研究は世界最先端との戦いだ。そこに人生を賭して本気で取り組みたいのであれば、大学ではなく研究所に行くのが正解なのだと思う。自分自身も、研究を志して、研究を究めたくてここまでやってきたという気持ちがもともと強かった。だけど、この1年で教育者として得た経験はあまりに新鮮で強烈で、仕事に対する自分の考えが揺らぐ衝撃を受けている。そして今も、毎日のように新たに学んだり感じたりすることがあって、この先自分の考えがどこに着地するのか見えていない。

 少なくとも今は楽しめている。日々新しい経験ができること自体が単純に面白いし、その経験に対して自分がどう考え、どう変わっていくのかを体験することも楽しい。自分は教育は嫌いではないし比較的向いている方だと思う。一方で、研究でもまだまだ成果をあげたくて、持てる全てを研究に投じて出来るだけ先に行ってみたい気持ちもどこかにあるはずだ。「どこかにあるはず」と言ったのは、今はその気持ちを「自分の考え方が大きく変わる過渡期である」という理由で押し込めていて、どこにあるのか分からないからだ。

 とりあえず今は、教育も研究も目の前のことをやれるだけ頑張るがむしゃらフェーズで、大学教員としての自分の経験や成長が一巡するまではそれでよいのだと思っている。幸いにも、教育も研究も尊敬できるレベルで本気で取り組んで両立させている、ロールモデルともいえる先生が周りにたくさんいるので、自分の考えがどんどん変わっていく中でも、今の方向を信じて進むことに不安はない。ただ、今の考えの進化が落ち着いて、自身を冷静に見られるようになったとき、一体何を感じるのか、「どこかにあるはず」と思っている気持ちが本当にどこかにまだあるのかは分からなくて、先が読めなくて怖いと思うところもある。

 研究者として求められるものと、教育者として求められるものは、あまりに違うと思う。自分は研究のプロとしては経験を積んできたけど、教育のプロとしての経験はない。ポスドクから大学教員になって、会社で言えば職階が上がったくらいの変化だと考えていたけど、実際には業界を変えて転職をしたくらいの気持ちでなければならなかった。こういう環境が変わった後の急激な考え方の変化は、味わっているときにしか味わえず、じわじわと慣れて無くなって思い出せなくなってしまうものなので、今しっかり味わって、記録しておきたい。

 

2021年の感想:大学の先生はとてもすごい

2021年は大学教員として過ごす最初の1年だった。コロナで例年のやり方やイベントが無くなったままなのでまだ仕事の全体像を掴めた感覚が無いのが残念だけど、ようやく自分のペースが作れるようになってきて、自分が教員であることに慣れてきた。教員になるにあたり一番心配していたのが、自分の研究時間(主著論文の仕事に取り組める時間)がどれくらい減るのか、ということだったけど、これに関しては、ポスドク時代に比べて3-4割くらい減った印象だ。正直もっと減ることを覚悟していた(期待値を下げておいた)ので、不満度はあまり高くない。むしろ、一般的な大学教員と比較して授業や学務の負担は少なく、実際に研究以外の仕事をかなり堰き止めてもらっている実感があるので、恵まれた環境だと思っている。

 ただやはり、絶対的な研究時間が減った分、ポスドク時代と比較して研究のパフォーマンスは確実に下がった。また研究時間が減っただけでなく、研究に使える時間が分断化されることも難しい問題だった。1日中自分の研究に使える日はなかなか無くて、多様な仕事の合間の細切れ時間をかき集めて研究を進めなければならない。時期によるムラも大きくて、休暇シーズンにまとまった時間が取れて一気に研究が進むこともあれば、1カ月以上データや原稿に触ることが叶わなかった時期もあった。実際、今書いている論文の解析と執筆も、その大半が去年の冬休みと今年の夏休みに一気に進めたものだ。複雑なメタゲノムデータの解析やその論文書きには、高い集中力と膨大な一時記憶が必要になる。なので、作業時間が分断されると、どうしてもその都度、元の集中力や記憶を復元するための時間がかかってしまい、減った時間以上にパフォーマンスは削られる。

 そんなわけで、今年の目標としていた年内の論文投稿は叶わなかった。2020年度までは年1報のペースで主著論文をpublishし続けてきたけど、2021年度はとうとう主著論文無しの年になってしまいそうだ。分野によって論文が出る速度が違うとはいえ、もっと競争的な分野でもっと多くの論文を出している先生もたくさんいる中で、自分は比較的恵まれた環境にいるという自覚がありながら、思ったようにアウトプットが出せないということについては、1年を通してストレスを抱えていたし、未だに大学の先生はいつどうやって論文を書くものなのか、答えが見つからないままでいる。

 では減った時間はどこに消えてしまったのだろうか?自分の研究以外の時間に何をやっていたか、改めて考えてみると、(1)広義では自分の研究といえる時間、(2)研究室の学生を指導している時間、(3)それ以外の仕事をしている時間、の3つに分けられるのかなと思う。

 (1)については、研究費の申請書執筆、査読、学会等での発表、共著論文の解析や原稿の確認などが含まれる。これらはポスドク時代にもやっていたことだけど、件数が格段に増えた。これらは自分の業績になる(可能性のある)仕事なので、研究活動の一環として楽しんでやれているし、ちゃんと本気で取り組みたいというモチベーションもある。ただ、もう少し主著論文を書きたいと思っているところなので、色々と声をかけてもらってチャンスが増えるのは良いことだけど、取捨選択を少し考えないといけない時期に来ていると感じる。(2)は後述するけど、一番時間を使っていて、難しく、やりがいのある仕事だと思う。教育は教員の本分だし、学生の研究成果が論文になれば(1)と同じく広義では自分の研究業績にもなりうる仕事なので、これも全力で取り組まなければならない。(3)は研究室のロジ、学務、講義の時間が含まれる。これらも教員の本分としてやらなければならないのは承知しているけど、正直に言えば、少なくとも今の自分にとって、時間を使うべき優先順位は(1)や(2)が上で(3)はその次とすべきでないかと思っている。感覚的には(1):(2):(3)=3:4:3くらいの比率で時間を使っていて、(1)や(2)に少しでも時間を回すために、(3)はできるだけ効率化して「やらなくて済むことはできるだけやらずに済ます」方向に進めたい。

 で、先に書いた通り、この中で一番大変で難しいのが、(2)の学生の指導だ。単刀直入に言えば、自分が想像していた以上に学生は未熟で、教えるのが大変だというのがこの1年で痛感したことだ。学生がヘボいということを言いたいわけではない。自分自身も同じ年頃は相当に未熟だったし、単に年齢と経験が足りないというだけなのだと思う。また未熟な分、そこからの成長スピードとポテンシャルはとても大きくて、それを見極める難しさも痛感している。学生からすれば、研究室に来る前までは小中高校生の延長のような生活をしていたのが、研究室に入って突然社会人的振る舞いが求められるのだから、それは未熟で当然で、伸びしろがあって当然だ。ただ、自分もそうであった時代からあまりにも時間が経って、色々なことが自然にできるようになりすぎてしまっているので、当時の自分を想像して学生の目線に立つのがとても難しい。この、社会の入口に立つまでの激動の数年をサポートする大変さと責任の重さは想像を超えていた。またその悩みを先輩教員に相談するなかで、世の大学教員が学生を理解し、育てることにいかに多大かつ繊細な苦労を注いでいるのかを知って、ますますその思いを強くしている。

 行き先がアカデミアの内外かを問わず、人を育てて送り出すという、社会にとって不可欠な役割を大学教員は担っている。「大学の先生」なのだから当たり前のことだけど、これまで大学教員の研究者としての側面ばかりに光を当てて見ていたので、その仕事の大変さと責任の重さを感じながら、「大学の先生はとてもすごい」という気持ちを日々新たにしている。しかも、それだけでも十分にすごいのに、それを世界最先端の研究成果をあげながらこなしている。だから大学の先生はとてもすごい。これが、仕事面で2021年を総括する感想だと思う。

 2022年は、今年の不作を取り戻すべく、主著論文を2本以上投稿すること、それから、この「とてもすごい大学の先生像」に少しでも近づいて、大学の先生として尊敬されるに値する仕事をすることを目標に頑張りたい。

微生物生態学会2021

 オンラインで2年ぶりに開催された微生物生態学会に参加した。前のポスドク先も今の就職先も、この学会での出会いがきっかけになっていて、大変お世話になっている学会だ。学生やポスドク時代はとにかく色んな人の話を聞いて視野を広げて、色んな人と話して人脈を広げる、というのが学会の参加目的だった。一方今回久しぶりに参加してみて、視野も人脈も広がりが一巡して、どちらかというと「この分野の研究は今どうなっているのか」「あのグループの人たちは今どんな研究をしているのか」という情報を仕入れることが主な参加意義になってきているなと感じた。

 自分の研究を発表したり人の発表を聞いたりはいつも通りオンラインで不自由なくできた。だけど学会では発表そのもの以上に、発表後の雑談や夜の懇親の場の方が価値ある時間だと思っている。今回はそれがほとんどなくて、有益な意見交換や新しい人脈作りはほとんど叶わなかった。オンラインの懇親会はそれなりに楽しめたものの、これもすでに微生態学会に知り合いがたくさんいたからで、例えば初めて参加する学生にとってはオンラインでの懇親はかなりハードルが高いだろうなと思った。オンラインでの交流は既存の人脈の貯金を食いつぶしているにすぎず、新しい人脈を作る場としては適さないな、というのは、コロナが始まった1年半前から今に至るまでずっと持ち続けている感想だ。

 身の回りでも少しずつ対面のイベントが戻ってきて、ささいな雑談の時間の重要性を改めて実感している。今回、海外の豪華ゲストの話を気軽に聞けたのはオンラインならではのメリットだと思うし、オンラインのイベントはこれからも続けばよい。だけど、学会の年会は違うと思う。特に学生にとって、他の研究室のメンバーとの交流機会が失われるのは致命的だ。来年は何としても対面でやってほしい。

陸水学会2021

 2年ぶりに開催された陸水学会(オンライン大会)に参加した。もう一つメインで参加している学会の微生物生態学会では、研究技術の進歩が速いこともあって、先端的な手法や解析に圧倒される発表が多い。一方でこの陸水学会は、そういう派手さはないのだけど、本大会で第85回と歴史ある学会で、日本各地の陸水の研究を絶やさず着々と進めている人たちが集まる場で、その研究の幅広さに触れられることが魅力だと思う。

 陸水の研究は、その「場所」自体が研究対象になっているので、悪く言えば一般化が難しいのだけど、反面、一般的な現象を対象にする研究に比べて、競争や差別化に悩まされる面は少ないのかなと思う。そのこともあるのだろうけど、こだわりを感じる個性的な研究が多く感じられて好きだ。特に、琵琶湖を対象とした研究の数と幅の広さには改めて圧倒された。琵琶湖というフィールドの面白さに加え、そこに魅力を感じて研究をしている人たちがこんなに多様な分野にいるのだ、というのを一挙に知ることができるのは、物理、化学、生物といった区分けなく、「陸水」という共通キーワードで集まる本学会ならではだと思う。湖という研究資源の歴史と魅力と奥深さと可能性を改めて見ることができ、期待していた以上に色々と感じるものがある学会参加だった。

 ただ、やはりオンライン学会は疲れるなと感じた。オンライン開催は、学会の疲れる部分だけが濃縮されていて、その疲れをごまかしてくれる、人との交流や出張先での解放感が一切ない。疲れるだけ疲れて、画面を切るといつもの日常が急に戻ってくる、というので、去年は新鮮だったオンライン学会も、だんだんと苦痛になってきている。今月末の微生物生態学会もオンライン開催で、仕方がないとはいえ、また疲れるのは嫌だな、という気持ちも結構大きい。今回が最後で次回からはオンサイトで再開できると信じて乗り切りたい。

「やらない」の先にあるものは何だろうか

 昔から「やること」よりも「やらないこと」を決めるのが苦手だった。性格的に、寄り道だと分かっていても、気になってしまうと一通り納得いくまで進んでみないとどうしても気持ちが収まらない。なのでビシバシと「やらない」選択を決めて効率よくゴールに向かっていける人に比べると、どうしても仕事が遅い。このことはずっと自覚している(けどそんなに直す気もなかった)自分の弱点だった。

 ところが最近、歳を重ねて経験値が溜まってきたこと、教員になって仕事の種類が増えたこと、親になって仕事に回せる時間が減ったことが重なって、「やらない」選択を下す(というより下さざるをえない)ことが増えた。何かに誘われたりお願いされたりしたときに以前よりも迷いなく断ることが増えたし、学会や研究会も以前ほど熱心にあれこれ参加することはしなくなった。研究でも自分の興味のままにどこまでも解析するのではなく成果物(論文)の分量に合わせた解析深度になるように「やらないこと」を選ぶようになった。細かいところでは文章を見直してチェックする回数とかも減った。以前と比べると自分の「納得感」や「こだわり」を追究するための時間を過ごすことが減って、結論や結果を出すまでの時間は早くなった。

 「捨てるものを捨てられるようになり、余計なことを考えずに前に進めるようになった」ことは自分にとって進歩だと思う。一方で、忙しい日々に流されるように「やらない」選択を次々と下し、だんだんそのことに慣れ、抵抗心が無くなっていくことに、もっと恐怖を感じなければならないのではないかと思うことがある。

 「納得感」や「こだわり」は自分がこれまでとても大切にしてきた感情だ。興味の赴くままに視野を広げ、時間がかかってもこだわりを貫いて納得のいくまで追究を続けることが、良い成果につながると思っているし、実際にこれまでそうだったし、もしそうではない場所があればそこからは距離を置くようにしてきた。最初に「弱点だと自覚していたけど直す気がなかった」と書いたけど、これもそういう理由で、「弱点だと分かっていればよくて、直す必要はない」と信じていた。それでこれまでうまくやってこれていた。

 なので、「やらない」選択に慣れていくうちに、自分が大事にしてきた「納得感」や「こだわり」への追究心が不可逆に薄まってしまうのではないかという恐怖がある。「やらない」選択を下すことが「気持ち悪い」から「当たり前」になっていけば、以前の「やらないと気持ちが収まらない」というモチベーションに突き動かされて到達できていた境地にはもしかすると二度とたどり着けなくなるかもしれない。

 これまでは自分に大きな心の変化が起こったときは、納得のいく説明がつくまでそのことを考えて理解することでそれを受け入れてきた。でも今は、すごい速さで忙しい毎日が過ぎていく中で、自分の変化について深く考え消化しきるところまで追いついていなくて、心の底からの自信が持てていない。「やらない」選択を下しつつ、目先の毎日は楽しく順調にこなせている気がしている。だけどそれが「納得とこだわり」で築いた自分の過去の貯金を食いつぶして成り立っているのだとしたら、そのことには早く気が付いて軌道修正をかけなければならない。

対面で会うことの価値が上がった

京都化学者クラブに招待をいただいて講演をしてきたのだけど、オンラインではなく対面での発表だった。会場は京大にある楽友会館という素敵な建物で、存在は知っていたけど中に入ったのは初めて。

f:id:yokazaki:20210809233422j:plain

f:id:yokazaki:20210809233431j:plain

f:id:yokazaki:20210809233438j:plain

公式に対面で発表をするのは2020年2月以来、なんと1年半ぶりだ。そもそも京大に赴任してから8か月が経つけど、ほぼ宇治キャンパスの中で暮らしていて、出張はおろか、本部キャンパスに行ったことすらまだ片手で数えるほどしかない。それどころか、同じ建物にいる別の研究室のメンバーですら未だにほぼオンラインでしか話をしたことがない状況だ。もはや電車に乗って京都市内に行くだけでも冒険気分を味わえる。

 今回は発表者は自分だけだったので、来てくれた方は自分の発表のためだけに足を運んでくれたことになる。オンラインだと発表の時間1分前くらいに一斉に自分の仕事の横でzoomを立ち上げて接続して聞きに来るだけだし、なんなら聞きながら他の仕事をしていたりするわけだけど、対面だと5分前にはほぼ全員来ていて自分の発表が始まるのを座って待っていて、自分の発表が終わるまでは目の前に座って聞いていていてくれる。オンライン発表が当たり前になりすぎてしまったことで、これがものすごく恐れ多いことのように感じられてしまって、対面で集まることの価値が高くなったなと思うと同時に、以前はこれが普通だったということが信じられなくなっている自分にも驚いてしまった。発表は分野外の方向けだったので、できるだけ噛み砕いて説明したつもりだったけど、それでも説明不足なところがあったようで「難しかった」という声があったので、なおさら申し訳ない気持ちになってしまった。 

 今回1年半ぶりに対面の世界を体験して感じたのは、普通に対面で集まれる世界に戻っても、多くの打ち合わせや発表会が「実はオンラインで十分だった」ということになって元のようには戻らないかもしれないということだ。一方で以前書いたように、対面でしか得られない時間や築けない関係というのもあって、対面での活動が完全に無くなるとは思わない。ただ、コロナ前ほど気安く人に会いに行けなくて、わざわざ足を運んで直接話すということが特別な価値を持つ世界になりそうだなと思う。

 ところで今回、大学に足を運ぶついでに、ワクチン2回目の接種を済ませることができた。大学の職域接種で早めに打たせてもらってとても有難い。副反応は1回目は腕の痛みと微熱だけだったけど、2回目は打った夜に39.5度まで熱が上がって悪夢にうなされ、翌日昼には元に戻っていた。これから自分の周りも少しずつ自由が戻ってくるのではないかと期待している。でも、あまりにも自由のない時間が長すぎて、元通りの世界に戻ることは無さそうだと思う。平日の朝や夕方の新幹線がいつも(半分くらいは出張する必要がなさそうな暇そうな)サラリーマンで満席だったあの世界は、たぶんもう見ることがないだろう。

AVW10

 運営委員を務めていた10th Aquatic Virus Workshop (AVW10) が無事終わった。本当は2018年のAVW9(アメリカ)にも参加したかったのだけど日程の都合で断念していて、当時はまさかその3年後に自分が運営する側になるとは思ってもいなかった。AVW10を宇治でやることは昨年12月に京大に着任する前から知っていたので、運営で忙しくなることは半年以上前から覚悟していた。初めて学会を運営する側に立ち、しかもそれが国際会議で、オンラインで、ということで大変だったけど、その分色々な経験を一気に積むことができたのは良かった。オンラインを活かした新たな試みも色々と導入してみて、概ね期待通りに機能して満足してもらっていたようで良かった。細かい反省点はあるものの、総じて見れば成功だったと言っていいのかなと思う。

 参加してみての感想だけど、オンラインでもちゃんと「国際会議感」があって、刺激になったし勉強になった。国際会議に出る意義としては、世界の最先端の研究者と交流し、互いの仕事を知れるということの他に、「研究者の名前や顔と仕事を紐づられるようになる」という効果も大きいと思う。海外の研究者と顔見知りになって、論文を読むときにそれを書いた人の顔が思い浮かぶようになることで、その研究を内容だけではなく、その人(または研究室)の一連の研究の流れの中での位置づけや狙いを含めて理解できるようになり、記憶にも残りやすくなる。AVWは初めて参加するコミュニティで、初めて顔を(画面上だけど)見る研究者が多かったので、「よく見るあのシリーズの仕事はこのグループがやっていたのか」とか「あのすごい論文を書いていた人はこの人だったのか」という発見が何度もあって良かった。

 オンラインならではの良さもあった。発表が録画されていて、聞き逃した場所を聞き直したり、飛ばしたい場所を飛ばしたりできるのは、内容を効率よくかつ完全に理解するのにとても有難い機能だった。オンラインでの質疑も対面より緊張感が薄くて、(特に若い人にとっては)質問がしやすい雰囲気があるなと感じたし、自分が質問できなくても、大御所同士が最先端の議論をしているのを横で聞いて「最先端の人たちでもこういうところでつまずいているのか」というのを知ることができたのはオンラインの良さだったと思う。一方で、時間をかけた密な交流はオンラインでは難しくて、相手の顔も2次元の画面と背景の中でしか表示されないので、対面で直接会うのとは交流や印象の質がやっぱり違って、オンラインが便利になったとは言っても対面が無くなることはなさそうだなとも思った。今後は両者の良いところを組み合わせたやり方や、オンラインとオンサイトを交互に開催するようなスタイルが普通になっていくんじゃないかなと思う。あと疲労度という点では、日本で日常生活を送りつつも、海外の時間に合わせて深夜のセッションもこなし、連日長時間ただ画面に向かってずっと英語でやり取りをするというのは、非日常感と開放感で疲れがごまかせるオンサイトの国際会議よりも、ある意味ハードだったと思う。

 今回はちょうど手持ちのウイルス研究ネタが無く自身の発表は見送ったこともあり、自分を相手に知ってもらう機会が無く、情報を得るだけの一方向の交流になってしまったのはすこし残念だ。次回は2年後にカナダで開催されることになったけど、今度は現地で発表し、対面で交流したい。