yokaのblog

京都大学で湖の微生物の研究してます

1週間フルで休んでみて味わった絶望

↑これを書いたのももう2年前か・・・と思ってよく日付を見たら去年の1月だったことに気が付いた。それくらい、去年は忙しくて長く感じたということかもしれない。

今年の目標は、「やりたいことを減らすのをやめる」にしたい。

と書いたけど、宣言通り昨年はちゃんと、これをずっと頭の中において過ごすことができたと思う。仕事も私事も、「AかBか迷うくらいならAもBも両方」というのをできるだけ実践するようにしてきたし「やらないのが一番楽」という気持ちにはできるだけ流れないように頑張ってきた。仕事を振り返ると、冬から春にかけてなんとか論文を形に仕上げ春はいろいろ欲張りすぎて徹夜寸前まで追い込まれ夏は念願の摩周湖調査を実現し秋は学会ラッシュのカオスでバタバタしている間に一瞬で過ぎ去った。仕事以外では、3月に次女が産まれたのが一番大きくて、あとはジムで体を鍛えだしたり、釣りで巨大マグロと格闘して敗北したり。仕事と家庭と健康と趣味を全部充実させるべく、公私とも予定を詰め込み続けた1年だった。

 そのなかでもハイライトが、秋の学会ラッシュのあとの11月にとった「夏休み」だ。ここでほぼ半年ぶりに1週間ほど空けられそうな期間があって、一昨年までの自分だったらここぞとばかりに書きかけの論文を仕上げにかかっていたところだったけど、先の記事に書いた「仕事で人生を終わらせてはならない」という気持ちのもとで、あえてここで1週間まるまる休みをとって、最低限のメールチェックを除いて仕事以外のことに全振りすると心に決めて、本当の休暇をとった。これが本当に充実していて楽しくて「自分には仕事以外にも今しか過ごせない時間や今しか楽しめないことがたくさんある」というのがよく分かったし、久しぶりに長期間仕事を離れたことで頭がちゃんとリフレッシュできたのも実感できた。ただその一方で、

1週間フルで休んだとしても、自分がやりたいと思っていることはほとんど消化できないんだな

ということを身をもって感じて、絶望というか、考え方を変えないといけないんだなと感じた。「今できる限界まで時間が使えた感覚があるのに、それでも全然足りない」という「絶望」は、仕事のほうではすでに2年前に味わっていたわけだけど、仕事以外のことに対しても、今回同じような絶望を味わうことになった。自分がやりたいことも、今しかできないことも、本当に無限にありすぎて、1週間だとほとんど何もできない。むしろ、中途半端に手を付けたことによる不完全燃焼感がストレスにもなったりした。でも、休みがもう1週間あっても、もう1か月あっても、きっと同じなんだろうなと思う。つまり、永久に満たされることはないのだと悟った。

 何週回って同じところに戻ってきているのか・・・という感じだけど、「やりたいことを全部やるのは絶対に無理」というのを受け入れつつ、「色々やりたいという気持ちは絶やしてはならない」というのと両立させるのは、やっぱり難しくて辛い。でも、そこにちゃんと突っ込んでこの辛さを味わっているという点では、「やりたいことを減らすのをやめる」という今年の目標は達成できたと思っている。今回の絶望を味わうことができたのも、忙しい中しっかりと休みをとったからこそのことなので、その点では収穫としてとらえている。

 歳をとるほど、仕事も家庭も状況が複雑になる一方で、若いころのように無茶できなくなるし、そんな中でも趣味は最低限続けたいというわがままがある。なので「やらなければならないこと」と「やりたいこと」の種類は減ることなく、どんどん増える。「量」だけではなく「種類」が多いというのが苦しみポイントだ。その結果、1つ1つにほとんど時間をかけることができない。仕事であっても、家族との時間であっても、健康維持の運動であっても、趣味であっても、「乗ってきた」と思ってきたところでの途中中断ばかりで、あれもこれも不完全燃焼だ。次にやっと時間ができたと思っても、不完全燃焼させて湿らせてしまった炭に再び火をつけるかのような不毛な再開コストを払うところから始まるのでとても効率が悪いし、何かを「極める」というレベルになかなか到達できなくなった。解決方法は「やることを絞ってそこにリソースを全振りする」に決まっているのだけど、「やりたいことを減らしてはならない」という縛りで生きているので、それはできない。だから、今のところ解決策は見つかっていない。

 しかし、若かりし頃はもっと哲学的なことに悩んでいたはずなのに、ここ数年の悩みはずっと、時間の使い方とかワークライフバランスとかの現実的なことばかりになっている。悩むということは、「言葉による説明がつけられていない」ことと同義だと思っている。言葉で説明がつくことであれば、それで納得ができるので悩む必要はない。悩んだり感情的になったりするのは、起きていることと自分の理解や理想との間のギャップを埋める説明が存在しないために、そのギャップを処理しきれなくなることで起こる。まさに今の自分は、ワークライフバランスに関する理想と現実のギャップを埋めるうまい説明の言葉が見つからないために、このことに苦しんで悩んでいる。

 多分若かりし自分が哲学的なことに悩んでいたのも、人生の経験値が浅いがために、身の回りのことにうまく説明がつけられないことが多くて、それに自分なりに解説をつけて納得したいという動機が大きかったのだと思う。ただそうだとしても、不完全燃焼に苦しむ今の自分からすると、哲学的なレベルで悩み、図書館で哲学の本を借りて読み漁るほどに深く考えていたし、考えずにはいられなかったし、考える時間があった、かつての自分をとても羨ましく思う。人生の経験値がたまって、いろいろなことに説明がつけられるようになり、感情的になることがどんどん減っている中で、時間まで無くなってしまって、もうああいう次元で何かを考えるような動機もチャンスも二度とないのかもしれないと思うと残念だ。歳を取るってそういうことなんだろう。

 さていつもここに書いている1年の目標はどうするべきか。「時間の使い方で悩むのを止める」と言いたいところだけど、この悩みは解決しないというか、「やりたいことを減らしてはならない」という縛りで生きる限りは解決できないことだと思うので、多分1年後も悩んでいると思う。でもいい加減このことばかりで悩んでいるのも疲れたので、目標は「時間の使い方以外の何かで悩む」というのにしたい。それが何かは分からないけど、時間のことばっかり考えていて、それしか見えてなくなっている気がするので、これを目標に掲げることで、それ以外のことを考えるきっかけにしたい。なんとなく、世代間ギャップだったり、人付き合いのあり方だったりで、まだ説明がつけられてなくて悩みの種になりそうなことがあるような気がしている。論文のほうは、筆頭で年1本は堅持しつつ、できれば2本、コレスポや共著あわせて7-8本くらい出せるとうれしい。