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湖で微生物の研究してます

人を相手にするかモノを相手にするか

 人を相手にする仕事と、モノを相手にする仕事がある。人を相手にする仕事が気にするのは「伝わり方」であり、目指す成果は「納得感」だ。モノを相手にする仕事が気にするのは「事実」であり目指す成果は「確かさ」だ。どちらも「結果」を出しているのだけど、この両者はゴールもアプローチも全く違うし、互いに相容れない。

 研究は当然モノを相手にする仕事だ。そして自分はモノを相手にする仕事のほうが向いているし好きだ。だから今やっている仕事は楽しい。以前働いていた会社(シンクタンク)に元々入社したいと思った理由も、アカデミアの外の世界を対象にしながらも、モノを相手にするスタイルで仕事ができそうだと思ったのが大きな理由だった。ところがその考えは間違っていた。シンクタンクのような、社会のより上流の意思決定に関わる仕事こそ、「伝わり方」や「納得感」が重要な、人を相手にする仕事なのだった。もちろん前提には「事実」や「確かさ」はあるのだけれど、最終的には「納得感」がそれに勝る。社会のあらゆる意思決定の場がそのような「納得感」で動いていることは、それまで受験と研究の世界だけで生きてきた自分にとっては大きな学びだった。社会を動かすにはモノではなく人を相手にし、「事実」よりも「納得感」が必要だ。だから同じ事実を伝えるにも「誰が」「どう言うか」がとても重要で、言い方を考えることで価値を出す仕事が存在する。このことは会社員生活を通じてとてもよく理解できた。とてもよく理解できたうえで、やっぱり自分はモノを相手にする世界で仕事をしたい、と思った。何なら、人を相手にする仕事は、モノを相手にする仕事よりも難度が低いとすら思っている。モノを相手にしようとすると、分かっていることと分かっていないことを正確に見分けることが必要になるから、たくさん勉強して事実をインプットしなければならない。それは時間がかかって大変だ。一方で、人を相手にするときに気にするのは相手がどう感じ、どうやったら納得してくれるかということだ。勉強は必要なくて、相手と仲良くなって、相手のことを一生懸命考えるだけでいい。その「相手のことを考えるのが大変なのだ」という反論があるかもしれない。確かに、人の心を掴みまくるカリスマ営業マンや宗教指導者のようなレベルに到達しようとすれば、事実を勉強するよりもはるかに大変な努力と才能が必要なのだろう。だけど、そういうトップレベルを目指すならともかく、普通のレベルで人を相手にする仕事をするのはそんなに難しいことじゃない。少なくとも、勉強よりは楽だ。だから、モノを相手にする仕事の方が、人を相手にする仕事よりも難度が高く、やりがいもあってカッコいいと思っている。もっと言うと、人相手の仕事に頼りすぎて、モノ相手の仕事が軽視されていることが、この国の科学に対するリスペクトの低さにも繋がっていると思う。そういうわけで、モノを相手にする仕事をもっとやりたいと思って、研究の世界に戻ってくることにした。

 ところが最近、というか分かってはいたことだけれど、研究の世界であっても、重要な意思決定は「人相手」で下されるのだと感じさせられる。伝え方で結果が変わるような場面があって、そのためにメールの文面を一生懸命考えたりしている時間がある。研究に比べたらチョロいと思っているはずの仕事で、研究の時間を捻出するために一刻も早く片付けるべき仕事のはずなのに、かなりの時間と労力を使っていて、「ああ、これも自分が時間を使って価値を出す仕事なのか・・・」ということに残念な気持ちになってしまう。

 モノ相手の仕事だけで完結する世界がないことは分かっている。いかなる事実も、人に受け止められて初めて価値を持つ。どんなに素晴らしい研究成果(材料)があっても、それを魅力的に伝える努力(味付け)がなければ、人には伝わらない。そしてその味付けには相当の自由度があって、大いに属人的だ。研究も、末端では人を相手にする仕事になる。ただ常に、モノを相手にする仕事が主であり、人を相手にする仕事が従なのだという形にしたい。人を相手にする仕事が主になるのは嫌だ。事実よりも納得感が重要な世界からはできるだけ離れた場所にいたい。人相手で価値を出すのは自分には向いていないし、もったいないと思っている。