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湖で微生物の研究してます

話をしないと現実は見えない

 コロナで失われていた、対面でダラダラおしゃべりできる時間が戻ってきつつある。仕事のオンライン化で移動や会議が短くなったのは良いことだけど、その裏で失われたものも実は結構あって、それが何なのか、これから元の生活に戻っていく中で、徐々に実感することになるはずだ。

 そんな「失われたもの」の中で大きなものの一つが、「ネットに書けない情報の存在を知る機会」ではないかと思う。この世には「思っていてもネットには書けない」ことがたくさんある。というより、書けないことがほとんどだ。しかも、ネット上の情報にはバイアスがかかっている。語りたい人の意見が、語る必要のない人の意見よりもはるかに多く流れてくる。失敗よりも自慢が載りやすく、満足よりも不満が載りやすい。ネットに流れている情報一つ一つは事実であったとしても、そこから現実は見えない。現実の主成分は「ネットに書かれていないこと」だからだ。

 コロナ生活で、見聞きする情報のうちネット経由が占める割合が増えた。しかも、世界がオンライン化してどんどん便利に速くなっていく中で、人に会いに行く時間やダラダラ話す時間を非効率で無駄なものだと排除する傾向が強まっているように思う。自分自身、以前と比べて移動や会話が面倒に感じてしまったり、人の話に興味を持って会話を盛り上げる意欲が以前より薄くなってしまったりしているところがある。

 だけど今、少しずつ他人とダラダラおしゃべりする機会が戻ってきて、この世にはオンラインでは得られない情報や経験がたくさんあることに、改めて気づかされている。ダラダラと長話をする中で、互いにまとまりのない未熟な意見の開陳が始まり、それに対して率直な反応を出し合う過程で、「やっぱり同じように感じていたのか」という安心感があったり、「あまり共感してもらえないな」という意外感があったり、「そんな考え方もあるのか!」という発見があったりする。調子に乗って「言い過ぎて失敗した」と思うこともあったりするけど、その時の空気の緊張感や、それを乗り越えて学ぶことも、ダラダラおしゃべりでなければ得難い経験だ。会話の内容だけでなく、他人とお互いに時間と空間と話題を共有するという体験そのものも、現実を成し、人生を成していると思う。

 コロナ生活が2年を超えて、元の世界が想像できなくなるほど長い時間が経ってしまった。変わって良かったこともあるけど、努力して元に戻していかなければならないものもある。現地に足を運び、人に会って、「ネットに書けないこと」を直接見聞きしない限り、現実は見えないことは忘れてはいけない。