yokaのblog

湖で微生物の研究してます

山頂の景色を信じてただ登っている

 同学年の「すごい研究者」がどれくらいすごいのかをネット上で色々と調べていた。僕には会社員をやっていた3年分のロスがあるので、多くの同学年・年下の研究者が僕よりも経験も成果もある。僕はそのことに焦りを感じている。3年間外で働いたからには何か得たものがあってほしいけど、僕が外に出たからこそ得られたものってなんだったんだろうか。と最近になって改めて考える。

 研究に戻ってきた当初こそ、会社員時代の経験が活きて修士時代にはなかった仕事への向き合い方ができている感覚があったけど、今にして思えば、それは単に年をとれば誰でもできるようになることな気もして、会社員経験がどうとか関係なかったような気もしている。単に自分が今の環境に慣れてしまって、変化を感じなくなっただけかもしれないけど、会社員時代の自分を肯定したいがために、何とか得たものを見つけようとしていて、そう思いこんでいただけなのかもしれないとも思う。

 逆に最近感じるようになっているのが、会社員時代にお金とかブランディングの重要性を叩き込まれたことの功罪だ。お金は本当に大事で、世の中はお金で回っていて、お金がないと何もできなくて、お金をとってこれる人が偉い。これは世の中の仕組みとして事実だ。また、単に自分のやりたいことを言うのではなく、聞き手・受け取り手の期待を読み取って発信して、ブランドや信用を高める努力がなければ周りを動かせない。これも事実だと思う。世の中の多くの部分がそうやって動いているのだということを身をもって感じられたという意味では、会社員経験は貴重だった。でも、いつの間にか僕はそういう態度で研究にも接してしまっていると思う。研究というのはそういう即物的な考えで進めるべきものではない。幸運にも、研究というのはお金やブランディングから離れることが比較的許されている数少ない仕事だ。だから、自分の「知りたいこと」や「本当に面白いこと」に忠実になるべきだ。でないと、勿体ないし、続かないし、面白くないし、多分良い結果も出ない。前にも書いたけど、研究は、客観的であるように見えて、実はただルールが厳しいからそう見えているだけで、本当は主観的で、主観的であることが求められる仕事だと思う。

 僕が修士で書いた最初の論文は純粋な疑問からスタートした、真に「知りたいこと」が起点になっていたと言える。でも博士課程に戻ってきてから進めている仕事は、頭のどこかでゴールから考えてスタートしてしまっているような仕事ばかりだというのが、正直なところだ。もちろん、インパクトのある研究をしているつもりだし、書く論文には自分なりのこだわりを込めている。だけど、「やりたいことの先に結果がある」というよりは「成果」や「魅せ方」が先にあって、そのためにはどうしたらいいか、という考えのほうが頭にあったように思う。確かに業績が人生に直結する段階にいる間は、ある程度は結果を出すことを意識しながらやるのが正解かもしれない。視野が狭い駆け出しの間は、とりあえず目の前のテーマに飛びつくことしかできないから仕方がないというのもそうだと思う。もしもう一度やり直しても、僕は同じような道を選ぶのではないかと思う。でも、この考え方に慣れて、これからもずっとそうだといけない。自分の今やっていることと、その将来像を見比べながら、そう考えることが増えた。

 前にも書いたけど、世の中は思ってた以上に分かっていないことだらけで、論文になるテーマを探すのは難しいことでもなんでもなく、むしろ無限に存在するテーマの中から、本当に自分が「知りたいこと」「面白いと思うこと」を探し出してきて、それに時間をつぎ込む覚悟を固めないと、すぐに人生が終わってしまう。だから、僕は今手を付けている一連の仕事を「ゴールからスタートした最後の仕事」にしたいと思っている。今は登り始めた目の前の道を登るしかない状況になっていて苦しいけど、この山を登り切って一段落着けば、データも知識もスキルも一通り揃って、かなり自由に周りを見渡せるようになっているはずだ。そうしたら、次は安易に目の前の山を登らず、じっくり時間をかけて、「本当に知りたいこと」「一番面白いと思う事」を見つけ出して、無限にある山から、本当に登るべき山を選ぶ作業をやりたい。そんな「じっくり」とか言っていて大丈夫のかは分からない。でも、ここは時間をかけないといけないと思う。手遅れでないことを祈っている。