yokaのblog

湖で微生物の研究してます

ISME17 @ライプチヒ

ライプチヒで行われていたISME17に参加してきた。この学会に参加するのは前回のモントリオール大会に引き続いて2回目。前回は知り合いもあまりいなかったし、海外にも国際学会にも英語でのディスカッションにも慣れていなくて死にそうなくらい疲れたけど、今回は時差ボケ以外は体調もスケジュールも思い通りにコントロールできたので、前回のような辛さはなく楽しむことができた。

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↑人が多すぎてセッションの間を移動するだけでも大渋滞

今回もとても大きな大会で、ポスターは最初の2日で約1200題、後半の2日で貼り替わって追加で600題あって、口頭発表も最大7会場同時並行でやっていた。ポスターはセッションごとに分かれていて、自分が発表したFreshwaterのセッションのポスターには当然全て目を通したのだけど、それ以外にも自分の興味に近い仕事がPhageやMetaomicsのセッションに突然登場したりするし、手法的な意味では全ての発表が参考になりうるので、何だかんだで全てに目を通すことになった。その割には学会のスケジュールがびっしりで全然ポスターを見る時間が無くて、結局昼食抜きでチェックし続けることになってしまった。

色々と参考になる発表はあったけど、大きな感想としては、日ごろから論文をフォローし続けている甲斐あって、結構ちゃんと最新のトレンドを追えていることを確認できた、というのがあった。少なくとも自分に近い分野では、全く知らなくて驚いた、というような動きはなかった。また今回多かったのが、学会直前にBioRxivにプレプリントを投稿しておいてそのネタを発表する、というパターンだ。査読前の最新の情報をまとまった形で、かつ差し支えない状態で公開しておけて、発表の内容をより詳しく知る/知らせる方法としてプレプリントが使えるので、これは読者にとっても筆者にとっても良いアイデアだと思う。一方で、すでに査読付き雑誌に掲載されている内容の発表も結構あった。これってルール的にはどうなんだろうか?「そんなの論文読んで知ってるからもっと新しいデータを見せてくれよ」という気分になった。ただ、InvitedやPlenaryでPIクラスの人が長めの口頭発表する分に関しては、そのラボの過去から現在までの仕事を整理して話してくれたのが勉強になったので良かったと思う。

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↑広大なポスター会場。天井から吊ってある案内板が親切だった

自分の発表はポスターだったけど、話をしたい人とは一通り話をすることができて良かった。今回発表のデータは1年以上こねて完成度を高めてきたやつだったので、全否定されたらどうしようかとドキドキしていたけど、良い反応が多くてよかった。逆に言えば、意外な反応というのはあまりなくて、フィードバックという意味での収穫は少なかったとも言える。

また学会全体を見ていて、湖沼で優占する従属栄養の細菌(acIとかLD12とか)の研究ってかなり少数派なんだなと思った。今学会の淡水のセッションの発表も、メタンや窒素の循環に関するものが多くを占めている雰囲気だった。だからこそ、世界・日本を代表して淡水の従属栄養細菌の研究をやる意義があるともいえるけど、長い目で将来の展開を考える上では、この分野の微生物生態学の中での立ち位置は冷静に見続けておいたほうがよさそうだと思った。

人脈もいろいろできた。もともと仲良くしていたスイス・チェコ・スペインのメンバーとも会えたし、一度話をしてみたいと思っていた韓国のグループや、論文をフォローしていたアメリカのグループのポスドクがポスターを見に来てくれたりした。現地に来ていた日本人の研究者達とも新しく知り合いになれた。前回の学会では海外勢(ヨーロッパ勢)と飲みに行くことが多かったけど、彼らとは飲み方・食べ方や、時間感覚の違いが大きすぎて、一緒に飲みに行くとあまりにも疲れるということをこれまでに学んだので、今回は敬遠して、日本人と飲みに行くことが多かった。ちょっともったいなかったな、という気もするけど、今回は絶対に体調を崩したくなかったし、日本人同士で楽しい時間を過ごすことができたので、まぁこれで良かったのかな、と思う。

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↑本場のビアフェスにも行ってみた

総じて、海外に行くこと、国際学会に出ること自体に慣れてきた感覚があって、これまでの国際学会で受けたような刺激は無くなってきたような気もする。また、業界の動向やその中での自分の研究の立ち位置も冷静に見られるようになってきているおかげで、意外性という意味でも、これまでの学会よりは情報が少なかったと感じる。ただこれは裏を返せば、うまく体調とスケジュールを管理しながら、冷静に情報を集めることに集中できたということだとも思う。国際学会に対する「恐れ」のようなものが無くなったと感じることができた出張だった。

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意地の琵琶湖採水

 4月につくばに移ってからも定期的に琵琶湖に通って水を採っている。片道5時間以上かかるのでなかなか大変だけど、「自分の足で一次データを集めて研究を差別化すること」の強さと必要性をこれまでも感じてきたから、多少無理してでもやっておきたいと思って続けている。

 実は先週が調査の予定だったのだけど、船にトラブルが起こって当日キャンセル。時間も金も無駄になって、スケジュールもぐちゃぐちゃになって心が折れかけたけど、意地を見せて2週連続で滋賀に来て、なんとか昨日無事調査をすることができた。

今回は生態研の船に代わって、もともと県の調査船だった「はっけん号」での採水。

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いつもの船よりも大きくて、船上での作業スペースも十分。

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濾過システムも改良を重ねて、今使っている方法では、沖合で採水した湖水約8Lから真核微生物・原核生物・ウイルスの3画分を分けて収集し瞬間凍結するまで30分強で行うことができる。これにより、メタゲノムだけでなく、メタトランスクリプトームのサンプルも同時に収集している。他の湖ではここまでの作業が船上で出来る環境はなかなか無いと思う。またこれを個人レベルでコンパクトかつ自由に行えるというのもポイントだと思っている。例えば海の研究だと、スケールが大きすぎてこうはいかないと思う。「琵琶湖ならでは」を活かした研究にしたい。

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外は灼熱で、表水温も30℃近くまで上がっていた。いつもなら汗をサンプルに垂らさないように注意しながら作業するレベルだけど、はっけん号にはなんと冷房がついていて、快適に作業をすることができた。

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今回は共同研究のサンプル採集もあって、船の上で40L以上の水を濾過。これもスペースが広いおかげで効率的・快適に行えた。

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プランクトンネットで集めた植プラをフィルターに捕集したところ。採りすぎて厚さ数ミリの植プラの層ができて、フィルターを折ると抹茶のお菓子みたいな見た目になった。

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↑植プラは緑藻が多くて、優占していたのはStaurastrumだったけど、相変わらずMicrasteriasもたくさんいた。久しぶりにPediastrumも見た。やっぱりかわいい。あとは珪藻と藍藻がちらほら。

 今回の調査は、色々な人を巻き込んでいてやることが多かったうえに、初めての船・初めての環境だったし、そもそもリベンジなのでもう絶対に失敗できないということもあって、最後までトラブルが無いかとても不安だった。無事に採り終えた後は、しばらく経験したことがなかったくらいの達成感があった。ただ計画通りに水を採っただけなんだけど。嬉しかったので素直に喜んだ。

微生物生態学会@沖縄

 沖縄の微生物生態学会に参加していた。台風で日程が1日短くなって、過密スケジュールだったけど、楽しい時間を過ごすことができた。昨年は海外にいたので国内の学会に参加するのは久しぶりだったのだけど、やっぱり学会は楽しい。

 一番の感想は「日本語を話し過ぎて疲れた」だ。最近ラボにいても、一人で黙々と論文を書いている時間がほとんどなので、連日朝から晩まで話し続けて、外国に行って英語漬けになったときのような脳みその疲れを感じた。研究上の議論はもちろん、飲み会での日常的な会話も含めて有意義な情報交換ができたし、楽しかった。会話というのは、他人が物事をどう考えているか、自分が他人にどう見られているのか、という声を直接聞けるだけではなく、自分が相手に話をすることで、自分自身が考えていることを言語化して整理・再確認できるという意味でも必要なことだと思った。

 学会の雰囲気については、これは飲み会でも話題になったのだけど、NGS技術が成熟してきて「とりあえずたくさん読んでみました」という研究から、目的を達成するための手段としてNGSを使うような研究が増えたという点と、微生物同士・微生物と他の生物との相互作用に注目した研究が増えたという点が印象に残った。後者に関しては、しばらくブームは続きそうな感じでしっかりフォローする必要があるなと感じつつも、個人的にはすでに乗り遅れている感があるので、「さらにその次は何が来るのか?」ということを考え始めておかなければと思った。飲み会ではそういう観点ですでに動き始めている人の話も色々聞けて、とても面白かった。こういう「未来で当たり前になるものを予測して手を付けておく」というのは研究でもビジネスでも一番クリティカルかつ楽しい作業だと思う。

 また自分のアンテナが広がったということがあるのだと思うけど、以前よりも多くの発表に対して興味を持って聞けるようになったと感じた。これは良いことだと思う。自分自身の研究が全体のどこに位置付けられるのかをより客観的に見ることができるようになるし、何より、今まで気づいていなかったその研究の面白さや価値に気が付けるようになったというのは単純に楽しい。とはいえ、まだ「この研究は自分に関係ないかな」と見えている研究も多いので、これからもインプットを続けて守備範囲を広げていく努力が必要だと思った。「この人と共同研究したら面白そうだな」という発表もいくつかあったのだけど、今は風呂敷を畳む時で、新しいことに手を出している場合ではないので、積極的にこちらから声をかけることができなかったのが残念だ。早く手持ちの仕事を片付けて、新しいことを考えられるようになりたい。

 発表は、今回はシンポジウムでさせてもらった。まだデータがあまり揃っていなくて、趣旨に合うような話が提供できるか不安だったけど、少し夢も語らせてもらって、なんとかまとまった話にした。「面白かった」と言ってくれる人もいて嬉しかったけど、自分自身、今回語ったことがどこまで達成できるのか全然見えていない。デカいことを言っておいて全然実現できなかったら申し訳ないし、そうならないように頑張らなければならないと思った。

山頂の景色を信じてただ登っている

 同学年の「すごい研究者」がどれくらいすごいのかをネット上で色々と調べていた。僕には会社員をやっていた3年分のロスがあるので、多くの同学年・年下の研究者が僕よりも経験も成果もある。僕はそのことに焦りを感じている。3年間外で働いたからには何か得たものがあってほしいけど、僕が外に出たからこそ得られたものってなんだったんだろうか。と最近になって改めて考える。

 研究に戻ってきた当初こそ、会社員時代の経験が活きて修士時代にはなかった仕事への向き合い方ができている感覚があったけど、今にして思えば、それは単に年をとれば誰でもできるようになることな気もして、会社員経験がどうとか関係なかったような気もしている。単に自分が今の環境に慣れてしまって、変化を感じなくなっただけかもしれないけど、会社員時代の自分を肯定したいがために、何とか得たものを見つけようとしていて、そう思いこんでいただけなのかもしれないとも思う。

 逆に最近感じるようになっているのが、会社員時代にお金とかブランディングの重要性を叩き込まれたことの功罪だ。お金は本当に大事で、世の中はお金で回っていて、お金がないと何もできなくて、お金をとってこれる人が偉い。これは世の中の仕組みとして事実だ。また、単に自分のやりたいことを言うのではなく、聞き手・受け取り手の期待を読み取って発信して、ブランドや信用を高める努力がなければ周りを動かせない。これも事実だと思う。世の中の多くの部分がそうやって動いているのだということを身をもって感じられたという意味では、会社員経験は貴重だった。でも、いつの間にか僕はそういう態度で研究にも接してしまっていると思う。研究というのはそういう即物的な考えで進めるべきものではない。幸運にも、研究というのはお金やブランディングから離れることが比較的許されている数少ない仕事だ。だから、自分の「知りたいこと」や「本当に面白いこと」に忠実になるべきだ。でないと、勿体ないし、続かないし、面白くないし、多分良い結果も出ない。前にも書いたけど、研究は、客観的であるように見えて、実はただルールが厳しいからそう見えているだけで、本当は主観的で、主観的であることが求められる仕事だと思う。

 僕が修士で書いた最初の論文は純粋な疑問からスタートした、真に「知りたいこと」が起点になっていたと言える。でも博士課程に戻ってきてから進めている仕事は、頭のどこかでゴールから考えてスタートしてしまっているような仕事ばかりだというのが、正直なところだ。もちろん、インパクトのある研究をしているつもりだし、書く論文には自分なりのこだわりを込めている。だけど、「やりたいことの先に結果がある」というよりは「成果」や「魅せ方」が先にあって、そのためにはどうしたらいいか、という考えのほうが頭にあったように思う。確かに業績が人生に直結する段階にいる間は、ある程度は結果を出すことを意識しながらやるのが正解かもしれない。視野が狭い駆け出しの間は、とりあえず目の前のテーマに飛びつくことしかできないから仕方がないというのもそうだと思う。もしもう一度やり直しても、僕は同じような道を選ぶのではないかと思う。でも、この考え方に慣れて、これからもずっとそうだといけない。自分の今やっていることと、その将来像を見比べながら、そう考えることが増えた。

 前にも書いたけど、世の中は思ってた以上に分かっていないことだらけで、論文になるテーマを探すのは難しいことでもなんでもなく、むしろ無限に存在するテーマの中から、本当に自分が「知りたいこと」「面白いと思うこと」を探し出してきて、それに時間をつぎ込む覚悟を固めないと、すぐに人生が終わってしまう。だから、僕は今手を付けている一連の仕事を「ゴールからスタートした最後の仕事」にしたいと思っている。今は登り始めた目の前の道を登るしかない状況になっていて苦しいけど、この山を登り切って一段落着けば、データも知識もスキルも一通り揃って、かなり自由に周りを見渡せるようになっているはずだ。そうしたら、次は安易に目の前の山を登らず、じっくり時間をかけて、「本当に知りたいこと」「一番面白いと思う事」を見つけ出して、無限にある山から、本当に登るべき山を選ぶ作業をやりたい。そんな「じっくり」とか言っていて大丈夫のかは分からない。でも、ここは時間をかけないといけないと思う。手遅れでないことを祈っている。

休日が難しい

 会社員だった頃は「平日こんなに働いているんだから休日など働いてなるものか!」という気持ちで、土日は躊躇なく趣味や旅行に費やせていたのだけど、研究に戻ってきてからは、不本意な罪悪感があって、思い切って休みを楽しむのが難しくなっている。

 自分は今やりたいことをやっていると思う。忙しくしているけど、それは全部自分で決めたことで、自分のペースで進めている。「やらなければならない」と思っていることがたくさんあって、なかなか思っていたようなペースで進んでいないのも事実だけど、それは全て自分が意味があると信じていることで、そのプレッシャーが精神的な苦痛になることはない。もし土日がなかったとしても、僕は健康的に自分の意志で淡々と仕事を進めていると思う。

 だけど実際にはこの社会には「平日と土日」という曜日の別がある。そして僕には研究以外にもやってみたいことや、過ごしてみたい時間、行ってみたい場所が色々ある。常々、多趣味だと「やりたいけど出来ないこと」が増えるから不幸になる、ということを考えるのだけど、実際に色々とやってみたいと思う事があるのだから、この気持ちはどうしようもできない。そこで土日になるたびに「せっかくの休日なのに」という気持ちが芽生える。平日モードになっていた脳みそにとって「土日」は本当に邪魔な存在だ。「人生は仕事だけではない。今やらないと一生できないことばかりだ」という気持ちと「今の仕事をし続けるのに遊んでいる場合ではない」という気持ちがぶつかり合って、気が重くなる。結果、「土日」という、ただカレンダー上の文字の色が違うだけの日が来る度に、仕事をしていても、遊びに出かけていても、モヤモヤした気持ちで過ごしている。

 僕は研究は自営業みたいなものだと思っているけど、本当の自営業の人から「何年も休みなんかないし旅行なんか絶対無理」という話を聞いたことがある。やっぱりそれくらいやらないとダメな世界にいるのだろうか。「命懸けで仕事をしたい」という気持ちで、会社を辞めて将来の見えない世界に飛び込んできて、実際に命懸けで仕事をしている気分でいた。でも、休日をそれなりに楽しんでしまっている今の自分は全然甘くて、他のやりたいことを全て封印して打ち込むようなレベルで命懸けにならないと、この命懸けの世界では生き残れないのかもしれない。

 「カレンダーの色なんかどうでもいいから、働きたいときに働いて、休みたいときに休めばいいじゃん」というのはその通りだと思う。僕もそう思っていた。でも、仕事と趣味、どちらも同じくらいやりたいことがたくさんあるのに、時間の流れ方は全然違っていて、その折り合いを自分の意志でつけるのはとても難しい。今、土日になる度にモヤモヤして過ごしているけど、もし土日がなければ毎日モヤモヤして過ごさなければならなかっただろう。平日を平日にするために、やっぱり土日は必要なのだろうと思う。

 これからも「やりたいけどできないこと」はどんどん増えていくはずで、それが嫌だから、少しずつ「やりたいこと」を減らす努力をしている。けどそうしている自分自身も嫌で、土日に遊び倒していた頃に比べて活動的ではなくなってしまった自分に気が付いて、歳をとってしまったなと感じる。贅沢で傲慢だけど、あの「土日にまで働いてなるものか!」という気持ちで、金曜日の深夜の酒臭い満員電車で帰るワクワクを久しぶりに味わってみたいと思ったりもする。

壁の高さを見誤ってはいけない

 今週はほぼ100%の時間を投入してガリガリ論文を書いていたのだけど、月曜日の時点で「水曜までには終わるだろう」と思っていたのが、今(金曜日の夜)になっても終わっていない。論文のストーリーを組み立てたところで出来た気分になっていても、そこから先行文献を漏れなく誤解なく厳密に読み込んで、図や文章の体裁を完璧にして外に出せる状態にするのは、またとてつもなく時間がかかる作業で、自分が思っているペースの半分くらいでしか進まないと思っていたほうがよさそうだ。こんなにしっかり論文書きに時間を使えるなんて恵まれているし、このあとこんな時間はどんどん少なくなっていくような気がするのだけど、もっと忙しそうなのに1年に何本も論文を出している人は一体どうやっているのか不思議でならない。寝てないのか、遊んでないのか。僕は寝たいし遊びたいので、それができないのなら研究者には向いていないのかもしれない。

 ともあれ、ずっと論文を書けていないなかったので、久しぶりにちゃんと進んでいる感があって安心している。安心するために論文を書くわけではないけど、論文を書いていないと不安になる。というか本当はこれで安心していてはいけない。そもそも今書いているのは一番書きやすくて一番時間を使うべきではない小ネタで、後ろに控えている中ネタと大ネタの論文化、さらにまだ全然着手できていないその次のテーマに早く手を付けるために、一刻も早く終わらせなければならないやつだ。

 目先の事にとらわれずに遠くを見ているつもりだったのに、目の前にある壁が思っていたよりも高くて、結局目先のことで頭が一杯になっている。ださい。今「あと3年で行けるだろう」と思っている場所に行けるのは、10年後だったりするのかもしれない。

世界とgive & takeするにはまだ早い

 最近はデータもやることも無限にあって、中長期的に自分が進むべき方向も見えている状態で、しばらくは迷うことなく仕事ができそうだし、研究成果としても(まだ不確実なことがほとんどだけど)まぁ面白い方向に進んでいるのではないかと思う。

 時々「海外には行かないのか?」ということを聞かれることがある。僕は「しばらくは日本で頑張る予定です」と答えるし、実際そう思っている。もちろん、世界の最先端の研究者たちともっと仕事をしてみたいという欲望はある。だけど、今はまだその時期ではないと思っている。

 例えば今、自分の研究費を使って海外の有名研究室に行ったとしても、おそらく自分がgiveするものよりtakeするもののほうが圧倒的に多くなって、どうしても「勉強させてもらいに行く」という感じになる。相手にとっても、takeするものがないのなら受け入れる理由も特になくて、「自費で来るんなら断る理由もないし」というお客さん的な扱いをするしかなくなってしまう。何度も何年も海外に行けるのならそれでも良いのかもしれない。けど、一生海外に住むつもりでない限り、研究人生で海外に行けるチャンス・期間は限られているだろう。

 だから僕はどうせそのチャンスを使うなら、もっと互いにメリットがあるような対等な関係のもとで行ったほうが、効率良く楽しく研究ができるのではないかと思う。昨年スイスに行った時もそれは意識していて、小ネタだけど自分にしか出来なくて、確実に短期間で成果がでる研究ができる場所・方法を選んだつもりだ(実際に今その研究で論文を書いている)。

 客観的に見て、まだペーペーの自分が今外に出て「お客さん」にならないようにするのはとても難しいと感じる。なので今は日本で黙々と実績を溜める時期だと思っている。目指すべきは「世界の最先端で対等にgive & takeできる実績をつける」ことだ。そのためには少なくとももう2,3年は必要だろう。とても長い時間だ。けど今あちこちに飛び出すより、しばらくは水面下で黙々と勉強して論文を書きまくるのが最短ルートだと信じている。毎日のように世界中から論文が出てきて焦るけど、そう言い聞かせながら不確実な未来を待っている。