yokaのblog

湖で微生物の研究してます

あの人に出会ってなければ自分はどうなっていただろうか

自分が今なぜここにいるのかを振り返ったとき、他人の存在が起点となった出来事が多いことに気づく。自分の人生の可能性は、自身の努力と選択で広げてきたと考えてしまいがちだけど、実は自分自身ができるのは、既に存在している可能性を「伸ばす」ことに過ぎない。自分がいかに一生懸命やってきたと考えていても、結局自分ができることは「その時の自分が見知りできる範囲でベストを尽くすこと」でしかないからだ。

 言い換えると、それまでの自分が見知りえなかった新たな可能性を「広げる」には、外からのインプットがなければならない。「外からのインプット」にはいろいろある。映画や本との出会いだったり、人によっては事故とか災害とかかもしれない。けれど、人生の可能性を広げてくれる外からのインプットとして、最も頻度が高くて影響が大きいのが、他人との出会いだ。そして、丁寧に振り返っていくと、自分で選択したと思っている人生の岐路においても、多くの場合その根底には初めにその選択肢を可能性として提示してくれた他人が存在している。例えば自分がこれまでに所属してきた組織(中高大学・会社・部活・バイト・研究室など)や、これまで自分が取り組んできた仕事も、最後の選択こそ自分でしたものの、そもそもその選択肢がその時に机上にあった理由をたどると、だいたい誰かの存在に行きあたる。自分の人生は、他人との出会いの繰り返しで出来上がってきたことに気づく。

 そして面白いのが、他人との出会いの多くが偶然だということだ。「偶然」と「必然」を厳密に言い出すと哲学的になってしまうけど、ここでいう「偶然」は「納得感がない」と言い換えることができる。自分の努力や選択には納得感がある。今から見れば「あのときああしておけばよかった」という過去の自分の選択があっても、それは「その時の自分が持っていた情報量と精神状態ではそうするしかなかった」という点では納得するほかなく、「人生がもう一度あってまた同じ場面に差し掛かっても、同じことをやっていただろう」と思える点で、必然感がある。対して、人との出会いは、自分のコントロール外で起こるイベントであり「なぜあの時あの人に会えたのだろう」「人生がもう一度あっても同じように会えただろうか」と考えても、ほとんどが納得感のある説明に至らなくて、「あの出会いは偶然だった」としか言いようがないケースだ。なので、「あの時ああしてなければ人生どうなっただろうか」と真剣に考えることはあまりないし考えても意味が無いと思うけど、「あの時あの人に出会ってなかったら人生どうなっただろうか」は、本当に起こりえた現実味がある話として深刻に考えてしまう。自分の人生を左右するレベルの重要人物が現実にいるのに、その出会いには納得感も必然感もなく、偶然としか説明ができない。恐ろしくて、面白いことだと思う。

 普段は、日常的に色々な人と出会いながら生きている中で、その偶然の影響力の大きさを意識することは少ない。そして、なんとなく自分の努力と選択で人生を前に進めている気になって暮らしている。でも、冷静に過去を振り返ると、「この人がいなければ今の自分は無かった」という人が何人も頭に出てくる。その人たちに直接そのようなことを伝えたことはほとんど無い。そもそもこんなことを伝えられるような仲ではない、ほとんど話したことがない人だったり、一度しか会ったことがないような人が、自分の可能性を広げてくれた重要人物だったりする。広げてくれた可能性の重要性に気が付いたころには時間が経ちすぎて疎遠になってしまっていることもある。自分自身も、気が付かない間に、他人の人生を左右するようなきっかけを与えていたことがあったのかもしれない。いちいちそれに感謝して生きるというのはさすがに大げさだと思う。けれど、「他人との偶然の出会いの繰り返しが人生の枠を作っていて、自分はその枠の中で生きているだけである」というのを日ごろから意識しておくことは、他人への敬意を欠かさず、偶然を可能性に変える機会を増やすという点で、重要なことなんじゃないかなと思う。

頑張ったから不満が見えた1年

 「丁寧に考えて動く年にしたい」と掲げた1年が終わった。「人生に慣れて生き方が雑になってきたのではないか」という自覚に対する自分への警鐘だったのだけど、単に歳をとったことによる影響が大きい気がしていたので、正直なところ、結構難しい目標だったかなと思っていた。が、この1年振り返ってみて、少なくとも昨年よりは、丁寧に考えて動けた1年になった気がしていて、目標達成できた1年だったと思う。理由としては、歳をとって人生に慣れてきたこと以上に、今の職場で3年が経って仕事に慣れてきたことの効果が大きかったのかなと思う。どのようにすれば自分の時間を最大限にコントロールできるか、自分なりに取捨選択のやり方が見つかってきて、それを実践するために、日々丁寧に戦略的に動けたと感じている。

 具体的には、とにかく毎日「研究を進めること」を最大優先事項に掲げ続けることで、それ以外の仕事は割り切って考える、というのを徹底した。良く言えば「リソース配分の優先順位を遵守する」、悪く言えば「手を抜いてよい仕事を見定める」というのを、それぞれのタスクの重要度・緊急度・所要時間をより正確に見極められるようになったことで自分なりに徹底できるようになった。

 これまで進めてきた共同研究や学生との仕事も花開いて、論文は主著が短報で1本、共著が5本ということで、これまでで一番論文数が多い1年になったし、主著論文を新たに1本投稿する、という目標についても、和文総説ではあるけれど、1本執筆して受理までこぎつけた(掲載は来年になる予定)。水面下でもいろいろと共同研究や学生の仕事が動いていて、共著論文は来年も豊作になりそうだし、創発プロジェクトにも採択されて、久しぶりに海外に滞在して新しい国際共同研究も始まって、種まきという点でもいろいろと活動できた1年だった。一昨年から種まきを始めた培養の仕事も、テクニシャンの方との二人三脚で地道にやりつづけてようやく論文になる成果が出つつある。総じていえば、納得できる成果が出せた1年だったかなと思う。

 一方、成果自体にはそれなりに満足できた裏で、

「これ以上もう頑張れない」というくらいに頑張れた1年だったのに、これだけしか進めなかった、という絶望感

からくる不安や不満も大きいというのが、1年を振り返っての今の心境だ。今年自分が一番メインで進めたいと思っていた研究について、少なくとも論文の原稿を書くところくらいまでは行きたかったけど、未だにFigを作るところまでも行けていない。相変わらず、2年前に書いた「大学の先生はいつ自分の論文を書いているのか?」という問いの答えは見つかってないし、相変わらず、今も細切れ時間や休日返上で自分の研究を進めるしかない状況だ。その休日も、独身時代ならいくらでも喜んで捧げていたけれど、今は家庭も大事なのでそうもいかず、「休日に仕事ができる人はうらやましい」という不満に侵される不健康な状況に苦しんでいる。

 1年中、常に「この仕事が一番やりたい最高優先順位の仕事だ」と頭の中に考え続けていたにもかかわらずこの状況なのは、とても残念だったし、何よりも精神的につらかった。「やりたいけどできないこと」が増えると辛いので、「やりたいこと」は少ないほうがいいのではないか、というのは、度々書いていることだけど、やりたいことをやりたいと願わないと前に進めないのに、それを強く願うほど叶わなかったときのギャップに苦しむ、という構造は、自分の人生のテーマといってよいくらい、公私で苦しんでいる難しい問題だ。

 この不満は、自分が人並みに仕事がはかどらないからなのか、それとも自分が自分のペースを過大評価していたからなのかは分からない。いずれにしても、これ以上は頑張りようがないので、来年以降もこのくらいのペースでしか研究を進めることはできない、というのを受け入れないといけない。よく「思っているよりも人生でできる研究は少ない」とか「定年前になってやり残した研究が見えてきて焦りだす」みたいな話を聞くけれど、自分もそろそろ、残り時間で何をどれくらいやれるか、そして何をやれば満足なのか、を考えても良いのかなと思う。研究すべきことは無限にあるけれど、無限に満足しないまま終わるのは嫌だ。それに、将来は研究以外の人生にも挑戦できればと思っているので、そのためにはどこかで満足して、足を洗う日がなければならない。その満足点を見定める・・・のを来年の目標にするにはまだ早すぎる気がするので、来年の目標は、「今年と同じくらい頑張ったうえで、自身の研究ペースに満足すること」にしたい。色々と花開いて楽しい年になる気はしているけど、やはり心から満足しないとつまらない。期待値を上げすぎず下げすぎず、「自分はこれくらいのペースでやっていくんだ」という感触に自信を持てるようになりたい。

攻めきったスペイン出張

The Local Pangenomeというワークショップに参加するため、4泊7日の弾丸でスペインのアリカンテに出張に行ってきた。ヨーロッパでここまで短い出張は初めてで、スペインに行くのも初めてで、いつも以上にトラブルにも見舞われ、覚悟はしていたけどそれ以上に壮絶な出張になった。

 そもそもこのワークショップに参加することになったきっかけは、2022年の3月にさかのぼる。今回のワークショップの主催者であり、環境微生物のゲノムの微小多様性の研究の先駆者であるFranciscoに、Metagenomic Forumでのオンライン講演に呼んでもらったことが始まりだった。Metagenomic Forumはコロナをきっかけに、世界中のメタゲノム研究者がオンライン講演してまわるセミナーシリーズで、Franciscoの呼びかけでそうそうたるメンバーが集まっていて、講演内容のビデオの公開もあったので、もともと自分もファンで、参考にさせてもらっていた。なので、自分がmSystemsの論文プレプリントを出したことをきっかけに、ここでその内容を発表して欲しいとFranciscoから直接メールが来たときは驚いたし、こんな人たちに肩を並べて自分も話していいのか?という恐れ多さもあった。もちろん喜んで引き受けて、精いっぱいの講演をさせてもらったのが4月。これをきっかけに、メーリングリストに入れてもらい、様々な情報共有の場に入れてもらうことになった。その中でFranciscoから、コロナの制限が落ち着いてきたのでオフライン版をやりたいのだけどどうか、という提案があって、そこから今回のThe Local Pangenomeの企画に至ることになった。こういう経緯だったので、ワークショップ自体はオープンではあるものの、知り合いを伝ってしかその存在をしるきっかけがないという状況だった。日本でメールを受け取っていたのはおそらく僕だけだったので、それなりに日本の知り合いにも広めたものの、結局のところ日本からの参加者は自分だけで、韓国から発表無しで1名来ていた以外には、アジアからの参加者・発表者も自分だけというアウェーな状況だった。

 実は自分自身も、先月も長期で海外出張に出ていたことや、その他学会や調査の出張などが重なっていることもあって、スペインに行くかどうかはかなり迷っていた。というより、7割くらい行かないつもりでいた。が、Franciscoから直々に声をかけてもらったこともあり、「いけないかもしれないけど、登録だけしておくよ」ということで、(キャンセルしてもスケジュールに負担がかからない)フラッシュトークに申し込んでおいた。ところがその後、事務局から来たメールを読むと、30分のロングトークとして採択されました、と書かれている。その後スケジュールが発表されたのだけど、豪華な名前がならぶ講演者リストに自分の名前も並んでいて、嬉しいながらも外堀を埋められた形で参加を強行したという経緯だ。

 ワークショップは連日19時過ぎまで講演が入っていて、初日の最初の講演が始まる直前に現地に到着し、最後の講演が終わってすぐに現地をでるという、滞在時間よりも移動時間の方が長いクレイジーな旅程だった。なのでとにかく体調を崩さないことを最優先にしたかったのだけど、そもそも出発日の時点で体調が万全ではない状況だった。乗り継ぎが嫌いなので、普段は東京便を使ってでも直行便を探すのだけど、日本からスペインへの直行便はコロナで絶滅していて、ヨーロッパでの乗り換えはロストバゲージの話をよく聞くのでできれば避けたくて(実際、韓国から来ていた人はアムステルダムで荷物が無くなって大変なことになっていた)、そもそも今はロシアの上を飛べなくて乗り継ぐならヨーロッパ経由でなくても時間は変わらないので、色々考えて、大阪から香港経由でマドリードまで行って、そこから高速鉄道で会場のアリカンテに行く経路にした。マドリードからアリカンテへの高速鉄道は、ギリギリもう1本前のでも間に合いそうだったけど、変更可能なチケットにしておいて、もしマドリードに早くつけば直前に変更する考えで予約をした。

 が、初日から誤算で大変な目に合った。香港までは順調に来たのだけど、香港からマドリードの便が50分ほどの遅れ。過去の運行履歴もチェックして遅れがほとんどないことを確認していたのに、運が悪い。電車を1本早くするプランはこれで消えたなと思いつつマドリードに到着したら、こんどは入国審査が大行列。空港から高速鉄道の駅までは電車で20分ほどなので、乗るべき電車を調べつつ並んでいたけど、列が全然進まない。最初は長くても30分待ちくらいかと思ったけど、15分くらい待ったところで1/4くらいしか進んでなくて、これは1時間はかかるぞ、という感じになってきた。そうなると電車には間に合わない。予約変更可能なチケットなので、電車を1本遅らせる手もあったけど、そうすると最初のFranciscoのトークには間に合わない。横には乗り継ぎ時間が少ない人だけが並べるファストトラックがあったけど、電車の乗り継ぎには取り合ってくれないだろうなと、ダメ元で空港の係員にチケットを見せて時間が無いことを伝えたら、「いいよ」って感じですぐに通してくれた。前に並んでいた爺さんに「お前はどっから来たんだ、ずるいぞ」みたいな嫌味を言われたけど、なりふり構わずファストトラックに並ばせてもらい、なんとか入国審査をパス。これでギリギリ空港から高速鉄道の駅までの電車に間に合うはずだった。が、今度は荷物の受け取り所で大変な目に合った。ターンテーブルがたくさん並んでいて、案内板で自分の便の荷物が流れてくるレーンを確認するのだけど、電光掲示板に自分の便の表示がない。その辺を歩いている人や係員に聞いて回るけど、「知らない」「掲示板に載ってなければ無い」「うちの会社じゃないから知らない」という冷たい返事しかなく、もしかしてこの空港には別のターンテーブルフロアがあって、そもそも居る場所を間違えているのか?という可能性も考えだして、右往左往する状況に。空港のオフィシャルな案内所が一番頼りになりそうだったけど、そこも長蛇の列ができていて、一旦並んだけれど、列が一向に進まないので離脱。ターンテーブルフロアの端から端まで3往復くらい走って汗だくになりながら探すけど何も情報が見つからず、そうこうしているうちに、間に合うはずだった最後の接続の電車の時間が過ぎてしまい、絶望的な状況に。諦め半分で空港オフィシャルの案内所をもう一度見ると、列が消えている。猛ダッシュしてチケットを見せて、この便の荷物はどこに来ている、と聞いたら、「8番だよ」と教えてくれた。で、8番のところに行くと「リオデジャネイロ発」との表示がされていたけれど、すぐに自分のスーツケースが回っているのを見つけて回収。たぶん、ターンテーブルが足りなくて次の便の荷物も一緒に回していたのだろうけど、どこにも香港発との情報はなく、これはあまりにも不親切だ。自分はファストトラックで入国審査が早く済んだ方なので、他のほとんどの人もこの後自分の荷物を探すのに同じ目に合っただろう。さて、この時点で高速鉄道の発車時間までは20分をきっていた。Google Mapではタクシーで空港から駅までは15分と出ている。ここまで来て電車を取り直すくらいなら最後の賭けに出ようと決心し、タクシー乗り場に走っていく。またもや長蛇の列が発生しており、さすがに終わったかと思ったけど、タクシーが次々とやってきてすごい勢いで列がはけて、なんとか電車の発車14分前にタクシーに飛び乗った。ぼったくられないように料金を事前確認するが、英語が全く通じない人で、おそらくスペイン語ジェスチャーで31ユーロと言っているのだろうけど、よく確認できないまま飛び乗る。チケットを見せて、「この電車に乗りたいから急いでくれ」というと、頑張ってみる、みたいなジェスチャーで高速を飛ばしてくれた。その間に、タクシーがちゃんと目的地に向かっていること、運賃が31ユーロで間違いないことを、携帯と車内の掲示から全力で情報収集し、すぐに降りられるように信号待ちで現金と急いでくれた分のチップを渡して、なんと空港から11分で駅に到着。残りは3分だ。スペイン語だけど「あの歩道橋が近道だ」みたいなのを言っていたので、それを信じてスーツケースをもって全力疾走。列車案内の電光掲示板が遠くに見えたので、走って近づきながら視力の限りをこらして自分の電車を探す。乗る電車がまだ表示されていて少し安心し、表示された番号のプラットフォームに向かおうとするも、場所が分からない。まごまごしていると、近くを歩いていたお兄さんが方向を教えてくれて命拾い。これでいよいよ電車に乗れるかと思いきや、空港みたいな手荷物検査があって、「ここで引っかかったら最後だ」と祈るが、問題なくパスし、プラットフォームに走り降りて、係員にチケットを見せたのが発車時間ちょうど。汗だくで電車に乗り込み勝利をかみしめた。結局電車が10分くらい遅れて出発して、ここまで焦らなくても間に合ったというオチだったのだけど、放心状態で何もできないままアリカンテまで運ばれた。

 会場とホテルはアリカンテの郊外で、駅から長距離の路線バスに乗るという最後の関門があったのだけど、これは事前リサーチをしっかりしておいたおかげで、チケット購入もバス搭乗も一発で決まって、ホテルに着いたのが開場の1時間前。一息ついて、すぐに会場に向かう。ここまで必死に移動に移動を重ねるだけで、会場の表示を見るまでは自分が正しいことをしている確信が無かったけど、表示を見て初めて「着いた」という気持ちになって安心した。

 着くまでで終わったんじゃないかというくらい疲れたけど、ここからが本番だ。初日からレジェンド級の研究者の講演が続くので、一言も聞き漏らさないように一生懸命聞いた。初日からANI95%とか99.5%とか99.99%とかの話題が前置きなく飛び交う、微生物ゲノムの種内多様性や進化に特化したワークショップだった。こういう国際集会では、何が分かっているかよりも何が分かってないかが知れることが重要だと思っている。最先端の人が「The reason is still unknown」「This is paradoxical」みたいなことを自信満々に言ってくれると「これは本当に分かってないんだ」というのが確信出来て良い。また、こういう理論っぽい研究では、自分の意見を強く持っている研究者が多く、研究者間で意見の相違があってバチバチしているところも見ることができた。「この人結構きつい言い方するな」とか「この人のこだわりポイントはここなんだな」みたいなのが垣間見えるのは面白い。こういう、論文の著者名でしか知らなかった人たちの人間性や関係性が知れるのも、国際会議に参加する意義だと思う。初日の夜のパーティーはさすがにパスして、翌日の自分の発表に備えてホテルに戻ってすぐに休んだ。今回は滞在時間が短いので、現地時間に適応せず、できるだけ日本時間からリズムをずらさずに生活する作戦をとった。

 次の日は自分の発表があって、おそらくこれまでで一番の大舞台なのに、これまでで一番準備に時間を割けなかった国際発表になった。当日の朝に早起きしてリハーサルして、発表時間を大幅に超過していたのでその場で構成を変えた。30分のトークなので通しで練習できたのはその1回だけで、後半はほぼぶっつけでの発表だった。日本語でも英語でも「これを言うのを忘れなければ繋がる」というキーフレーズがあって、それさえ押さえておけば何とかなる、という経験があって、今回もそんな感じでなんとか乗り切った。発表が終わった直後に、複数の場所からたくさん手が上がったのは嬉しかった。質疑が終わった後のコーヒーブレイクでも何人かに質問してもらえて、大御所からランチに誘ってもらったり、海の結果と湖の結果を比べる共同研究を提案されたり、最近読んだ面白い教科書の編者に直接声をかけてもらって本の感想を伝えたり、自分の発表内で使っていた解析ソフトの開発者と話をしてその場で新機能を実装してもらったり、その他色々と論文でしか名前を知らなかった有名人と話ができて、遠くまで来た甲斐があったと思った。この日は19:30までびっちり講演が入っていて、とてもタフだった。もともと体調があまり良くなかったところに疲れも重なって、午後からは喉を壊して声が出なくなってしまった。熱は出なかったけど、その日の夜も大事をとって飲みの誘いは全て断り、スーパーで買った総菜をホテルで食べてすぐに寝た。

 3日目も日本時間にできるだけ合わせるために4時には起きて、溜まったメール処理などをしていた。やっぱり体調が良くなくて、スマートウォッチの異常心拍アラートが頻繁に作動する状況だった。スペインは西側にあるのにドイツなどと同じ時間を使っていて、夏時間が終わる直前のこの時期は朝8時でもこんな感じだ。

暗い中で通勤ラッシュが始まり、暗い中で朝ご飯を食べる。この日は昼に少し時間があったので、アリカンテのシンボルであるサンタバーバラ城を見に行った。頂上からの景色は、日本はもちろん、他のヨーロッパの国とも違った雰囲気の、乾いた山々の景色と海の対比がとてもきれいで、いつまでも見ていられる景色だった。正直、ここにくるまで移動とホテルと会場しかなかったので、この景色をみるまで、夢の中にいるような感じで、スペインに来たという実感が無かった。

本当にスペインにきたのだ、という気持ちがようやく沸いたところで、会場に戻り、最後のセッションが終わったのが19:15。その後20:30からが懇親会だ。始まるのが遅い。日本の感覚だと懇親会が終わる時間だけど、日が昇るのが遅いスペインでは、昼食時間も14時ごろで、日本よりも夜型の生活が普通らしい。体調は万全ではなかったけど昨日よりはよくなっていたので、絶対に早く帰る決意とともに会場に向かった。

 懇親会でとても後悔しているのが、料理を十分に楽しめなかったことだ。それまで機内食とスーパーの総菜とコーヒーブレイクの軽食くらいしか食べてなくて、レストランなどに行くチャンスもなく、ここが唯一本格スペイン料理を楽しめるチャンスだった。生ハムやアヒージョやパエリアをはじめ、美味しい料理が立食形式でたくさん出てきたのだけど、人と話すのに夢中で、きちんと味わえず、見過ごしてしまった料理もいくつかあった。どれも一口食べてとてもおいしかったことは覚えているけど、せっかくの場所なのでネットワークを作ることに必死で、料理を味わうことにももう少し必死になるべきで、もったいないことをした。エストニアで二次会から帰れなくなった二の舞になるわけには行かないので、22:30ごろ、話が途切れたところでそっと荷物をもって、誰とも目を合わさずにしれっと会場を後にしてすぐに寝た。

 最終日も4時に目が覚めた。後で聞いたところによれば、案の定多くの人がこの時間まで飲んでいたらしく、朝はみんなラフな格好でげっそりしていた(それでも9時にちゃんと来るのがすごい)。この日はウイルス関連の話が並んで、Kooninの刺激的で印象的なトークで締めくくられた。環境微生物の種内ゲノム多様性研究の最先端が今どこにあるかを改めて認識できた、期待通りの素晴らしいワークショップだった。自分の研究を多くの人に知ってもらえ、評価してもらえたことも嬉しかったし、最後まで迷ったけどはるばる参加した甲斐があった。最後にFranciscoにお礼を言って、みんなにお別れを言って、すぐに帰路に着いた。アリカンテ滞在時間はちょうど72時間だった。

 アリカンテからマドリードまで再び高速鉄道で戻り、翌朝の飛行機に備えて、マドリード市内に宿泊。週末だったので空いている宿がなかなか見つからなくて、勢いで選んだ安いホテル(それでも東京のビジネスホテル並みの値段)だったので、ちょっと心配だったけど、スーツケースを開いて置けないくらい狭くて、洗面トイレシャワーが占有なのだけどなぜか共用スペースを歩いた先の別の部屋にあるというのを除けば、一応清潔で寝るだけなら問題ない部屋だった。昔アメリカの安宿で南京虫に刺されてひどい目に合ったので、一応シーツを剥がしてチェックして、カバン類は全部棚の上に置いて、念には念を入れて腕や脚に虫よけを塗っておいた。チェックインした後、まだ明るかったので外に出て、主要な広場や王宮などを、暗くなるまでにできるだけ早歩きで見て回った。

ホテルが繁華街にあったので、そこからは渋谷的な場所を通って帰ったのだけど、ちょうどハロウィンの夜で、仮想した人がウロウロしていて、まさに週末の夜に東京の繁華街に来たかのようなすさまじい混雑だった。人混みは嫌いでスリも怖かったので、早々に脱出してホテルに戻り、翌日朝の出発に備えて荷造りをして、寝床についた。

 ホテルの壁が薄くて、夜は何度も近所の部屋に戻ってくる酔っ払いに起こされた。こちらが朝4時に起きた後も、続々と戻ってきていて、そのうち話し声が静かになって、こんどはいびきが聞こえてきた。この日は朝明るくなるくらいのタイミングで、もう1時間くらい外に出る時間がありそうなので、この朝からサマータイムが解除されて新しい時間になっていることを確認しつつ、近所の公園でも散歩しようかと携帯をいじっていたところ、なぜか航空会社から大量のメールが届いていることに気づく。

 これがこの旅の最後を飾るイベントの始まりだった。まず何が起こっているのかを理解するのにかなりの混乱と時間を要したのだけど、まとめると、寝ている間に、乗る予定だった香港便が9時間半遅れること、北京経由の飛行機に振り替えられたこと、さらにその飛行機が仁川経由に再び振り替えられたことを知らせるメールが、次々と送信されていて、月曜日の昼過ぎに日本に着くはずが、月曜日の深夜に着く予定に変更されていた。火曜日は出勤しないといけないし、月曜日の午後には家について荷解きをして一息つける予定だったので、深夜に帰るというのは受け入れがたかった。なんとか代案が無いか、色々調べていると、乗る予定だったキャセイパシフィックと同じ航空連合のフィンエアーで、元の香港便よりも1時間早い出発でマドリードからヘルシンキ経由で関空に帰る接続があって、しかもそれを使えばヘルシンキの乗り換え時間がたった40分で、何なら元の香港便よりも1時間早く日本に帰れることが判明した。このような便利な振替候補があるにもかかわらず提案されなかったのは、おそらく、元の便よりも出発時間が早い便だったためだろうと判断。今すぐに空港に行けば余裕で間に合うし、どのみち早く行かないと振替便の問い合わせでキャセイパシフィックのカウンターは大混雑になるだろうと考え、ヘルシンキ経由への振替を交渉できる可能性に賭けて、すぐに荷物をまとめて、まだ真っ暗な、酔っ払いが転がっている街をスーツケースを引いて駅に走った。

 7:00頃に空港に着いたら、行きのターンテーブル事件を教訓に、すぐに空港オフィシャルの案内所に行き、状況を説明した。すると、キャセイのオフィスが開くのは朝の8時とのこと。ヘルシンキ便が10:20発なので、その時間まで待っていたら、無理ではないけど、ギリギリのタイミングだ。そこで、キャセイのスペイン営業所の電話番号を教えてもらって、いつキャセイのカウンターが開いても一番に入れるように開く前のカウンター前に待機しつつ、そこから電話をかける。が、スペイン語の自動音声が流れて切られてしまった。次に、日本の営業所に電話をしたら、土日は日本語の対応はしていないという自動音声が流れた(おそらくスペイン語でも同じことを言っていたのだろう)あとに、英語なら24時間対応しています、という音声。助かった、と思い、先に進むも、キャセイの会員番号をダイヤルしろという指示で、キャセイ会員でない自分は撃沈。もう少し粘っても良かったけど、国際電話の電話代が爆発するのが怖かったのでそこで電話を切った。次に、英語版のウェブサイトから、WhatsAppの問い合わせ窓口を見つけたので、そこに連絡するも、「お繋ぎの地域からは利用できません」との自動メッセージの返信。終戦かと思ったけど、日本語で調べると、今度はLINEの問い合わせ窓口があることが判明。ダメもとで連絡すると、土日は日本語での対応はやっておらず、英語での対応になります。という自動返信メッセージ。英語なら行けるんか?と思い、状況を説明するメッセージを送るも、的を得ない自動返信メッセージが戻ってきて、ああ、やっぱダメか・・・と思っていたところで、時間差で”This is xxxxx. I will be assisting you today”との人間臭いメッセージが。望みはつながったけど、そんなに期待せずに続きを待っていると、なんとこちらが入力した予約番号から、自分の予約の詳細情報を呼び出して確認してきた。これはいけるかもしれない、と一気に前向きになる。スマホの画面に夢中になってスリに合わないように壁際に移動して、こちらの要求と、向こうが要求する情報を送りまくった。で、トントン拍子に話が進んで、”I am pleased to inform you that I have successfully reissued your ticket on Finnair!”という論文のアクセプトみたいなめっちゃ嬉しい文章が返ってきた。半信半疑でフィンエアーのカウンターに行ってみると、ちゃんと予約が取れていて、あっさりと大阪行きのチケットが発券された。この時の安堵と勝利感たるや。最後はあるとすれば、マドリードを出る飛行機が遅れて、ヘルシンキでの40分の接続に間に合わないパターンだけど、時間通りに問題なく飛んで、ヘルシンキで大阪行きのゲートに着いたところで完全勝利を確信。

帰りの飛行機はぐっすり寝れて、体感で往路の1/3くらいの時間で日本に到着。着陸してすぐに関空から京都行きの電車を調べると、急げばギリギリ乗れそうなはるかがあったので、ここで最後の勝負に出る。荷物受取がボトルネックになることは分かっていたので、焦らず入国審査を済ませ、ターンテーブルの前でパソコンを開いて、オンラインでのはるかの特急券の予約画面に進みながら、自分の荷物が出てくるのを待った。はるかは7,8,9号車が新型車両で電源がついていることが多いので、それを期待して座席指定し、発券直前の画面まで進めて待機。ヘルシンキの接続がギリギリだったから、おそらく荷物を載せたのも最後の方で、だとしたら最初の方に出てくるだろうし、さもなければ、接続に失敗してロストバゲージだろうな、という期待と不安で待った。結果、期待が当たって、priorityの人たちの荷物が出てきた直後に自分のスーツケースが出てきたので、その場でクリックして特急券を購入。急いでパソコンを閉じてターミナルを出て、外国人で大行列ができている券売機(これに並んでしまい乗りたい列車に乗れなかったことがある)を横目に改札を走り抜け、ちょうどやってきた目的のはるかに乗り込んだ。運よく新型車両で、電源付きだった。前日の朝に始まった不運と混乱を帳消しにする完璧なプレーだった。終わり良ければ全て良し、で気持ちよく帰路に着いた。

 あまりにも壮絶な出張だったので、ワークショップと関係ない話をダラダラ書いてしまった。これまでの海外出張経験を総動員してなんとか乗り切ったけど、どこかで少しでもミスっていたら(1分でもタクシーに乗るのが遅かったら、マドリードの駅でお兄さんがプラットフォームを教えてくれなかったら、LINEの問い合わせ先に気が付かなかったら)予定がめちゃくちゃに破壊されていた可能性があるし、体力的にも体調的にもギリギリを攻めて何とか持った(正確には、体調を優先してキャンセルした予定があるので持ってない)感じなので、予定通りに全日程参加して無事に帰ってこれただけでラッキーみたいな感じだ。これを反省に、今度からはさすがにもう少し余裕を持った旅程にしたいと思う。一方で、歳をとって自分が色々と守りに入っている感じに危機感を持っていたので、35歳にもなって、こんな攻めた出張を企画して、アウェーに突っ込んでぶっつけで発表をこなして、これだけのトラブルと戦って生還してくるなんて、まだまだ自分もやれるな、という嬉しさもちょっとあった。

 できるだけ時差をずらさないで過ごしていたおかげか、いつもよりは時差ボケも上手く抑えられている気がする。これからワークショップでとった大量のメモを消化・復習して糧にしなければならない。出張中に放置して溜まっている仕事も色々あるので、通常運転に戻るのにはまだ時間がかかりそうだ。

陸水学会⇒霧島御池調査

 大分で行われた陸水学会に参加後、宮崎の御池を調査してきた。九州の数少ない大水深湖でまだ調査できていなかったので、「大分まで行くならついでに」ということで計画したのだけど、九州の大きさをなめていて、大分から宮崎まで特急で3時間半もかかって全然ついでじゃなかった。

 宮崎空港で関西から呼んだ共同研究者と学生と合流し、レンタカーで御池まで1時間。この湖が90mもあるの?というほど小さな、直径1kmほどの湖。火口湖(カルデラ湖ではない)としては日本で最も深い湖だ。

湖畔のキャンプ場のコテージに機材を展開し、温泉につかって翌日の調査に備える。

今回は水深が約90mということで、電動リール採水システムではなく、古典的なロープでの手動採水を選んだ。前回の冬季の然別湖調査で、ロープでの採水が意外と楽で、水深100m以深から何発も取るような調査でなければ、電動リールはかえって取り回しの面で不便なのではないかという感覚をもったからだ。ただし前回は足場の安定した氷の上の調査だったので、動くし流される船の上でロープ採水が吉と出るかは未知数だった。学生の頃に中禅寺湖をロープで調査した際は、風があって船が流されることもあって重たい重りをつけざるをえず、それでもロープが斜めに出てしまってメッセンジャーが上手く降りなくて採水器がなかなか閉まらず、120mからのロープ採水がもう二度とやりたくないくらいに辛かった思い出がある。それから、これまでは別の研究グループと共同で調査を行うことが多かったけど、今回は完全に自力での調査で、ロープや採水器だけでなく、CTDやその結果をタブレットで船上で閲覧するシステム、新調した送液ポンプなど、複数の新機材を投入しての調査だったので、それらが無事問題なく作動するかも不安ポイントだった。

調査日は昼にかけて風が強くなるという予報で心配したけど、出港には問題ない天候で良かった。遊覧船を貸し切って湖心に向かうのだけど、そもそも御池はあまり研究の実績がなく、最深点がどこかも正確に分かっていないし、最大水深も93m-103mくらいの開きで諸説ある。限られた情報や遊覧船の船長からの情報を頼りに一番深いと思われる場所に座標を設定。到着したらまずCTDを降ろすのだけど、船長によれば「湖底には木が沈んでいて、機材を底まで降ろすと引っかかるかもしれない」とのこと。買ったばかりのCTD(約200万円)をいきなり失うわけには行かないので、降ろすのは90mまでで止めておこうか、という話になった。CTDの電源を入れ、毎秒50cm以内の速度でロープの読みが90mになるところまで降ろす。そこからは万一着底したらすぐに引き上げられるよう、神経を集中させながら少しだけ降ろしてみたところ、91mに行かない時点でいきなり着底の感覚。不意打ちでびっくりしたけど、ひっかけてはなるまいと、急いでロープを手繰り寄せて、そのまま回収。上がってきたCTDをその場でタブレットに接続し、データを確認する。確かに90m少しのところで着底している形跡が得られていたので、少なくとも採水地点の深度は約90mということになる。で、採水深度を決めるのだけど、ここで困ったことが起こった。多くの湖では、温度躍層を境に水が表水層と深水層の2層に分かれ、さらに躍層付近にクロロフィルピークがあったり、湖底直上に低酸素水塊があったりする。なので、最低2水深、多くても4水深あれば代表的な水塊は採れる計算で準備していた。ところが御池は、サイズの割に深さがあるせいか、循環が不十分で温度躍層直下からじわじわと溶存酸素が減って、70m付近からはほぼ無酸素、さらに80m以深では湖底からの溶出と思われる電気伝導度の跳ね上がりが観察された。深水層だけでも酸素濃度や電気伝導度の違いで鉛直的に3~4水塊には分かれそうで、表水層やクロロフィルピークを加えると、6水深くらいは調査したくなるプロファイルだった。ちょっと予測していなかったパターンだったので、その場で採水深度を考えるのに時間を使ってしまった。結局、表水層、クロロフィルピーク、深水層中層(貧酸素)、深水層中下層(無酸素)の4水深に決定し、採水を開始した。

風が強くなり始めていたので、採りたい水深から優先してどんどん進めていく。幸いにも、ロープが斜めに流されていくほどの強風ではなく、重たい重りを使わなくても済んだことや、細くて伸びの少ない高級ロープを導入したこともあるのかもしれないけど、思っていたよりも全然引き上げが辛くなく、メッセンジャーでの採水器のクローズも一発でバンバン決まって、拍子抜けするくらい順調に進んだ。実はこの調査のために筋トレをしていたくらい身構えていたので、むしろ物足りなくて、最後はあえて1キャスト追加して、ロープ手繰り上げ欲を満たすほどだった。何より、同行した2名がてきぱきと動いてくれて、自分は記録や段取りに集中することができたので、非常に助かったし楽だった。調査時間も最大3時間を予定していたけどなんと1時間半であっけなく終わってしまった。

あまりにも順調に作業が終わって、宿も湖畔ですぐ近くだったので、ゆっくり昼食を食べてから余裕をもって濾過作業をスタートすることができた。新調した送液ポンプも問題なく稼働してくれて、3人で役割分担してどんどん作業が進み、最後の水の濾過が終わったのがなんと4時ごろでまだ明るい時間。しかも途中からは濾過隊と片付け隊に分かれて作業していたので、濾過が終わった時点で片付けもほぼ終わっているという有様で、夜は温泉と焼肉で調査の無事を祝う余裕すらあった。

これまでの調査では、日が暮れてからが作業の本番で、一人さみしく延々と濾過をし続け、日付が変わるころにようやく終わってコンビニ飯にありつけて、そこから眠気をこらえて気合で洗い物をするのが定番だったので、それと比べると本当に天国のような調査だった。それに、複数人で作業できて余裕ができたことで、いつもよりも作業や記録を丁寧にすることができたので、仕事の量だけでなく、質という意味でも複数人で役割分担するメリットを感じた。

 翌日の機材梱包や、京都に戻ってからの洗い物も含めて、一緒に行った共同研究者と学生が本当によく動いてくれて助かった。これまでで最も効率的で、正確で、楽な調査になったと思う。新機材も問題なく稼働して、そのメリットや改善点も色々と見えたし、サンプル以外にも色々と収穫のあった、実り多い素晴らしい調査だった。

チューリッヒ大 Limnological Station 訪問

エストニアでの学会に引き続いて、チューリッヒ大学の陸水学研究所に2週間ほど滞在してきた。6年前に2カ月半ほど滞在して以来、2回目の訪問になる。チューリッヒ市内から電車で20分ほど出た湖畔にあって、毎朝湖のほとりを歩きながら通勤していた。

前回は調査や実験もして2本の論文になる仕事をしたけど、今回は京都大学チューリッヒ大学の戦略的パートナーシップの支援を受けての渡航で、今後の共同研究の深化に向けて交流を深めることが目的だった。今回ホストをしてくれたのはグループリーダーのStefan Andreiだ。Stefanとは彼がチェコにいたときに何度か会ったことがあって、共著での論文も出ているのだけど、彼がスイスに移ってからは会っていなくて、一対一で話をするのも初めてだった。彼の学生も含めて互いに研究内容がかなり近いこともあり、すぐに意気投合でき、話がどんどん進んで、琵琶湖・チューリッヒ湖双方でのサンプルの蓄積と、互いの得意技術を相乗するような内容で来年度の共同研究プロジェクトに応募する流れになり、申請書のドラフトをつくるところまで進めることができた。

 所長のJakobの含めて、研究所の他のメンバーや学生とも所内セミナーやランチを通じて交流ができた。前回の訪問でも感じたことだけど、単に研究分野が近くて話が合うというだけではなく、頭が良くて尊敬できる人達ばかりで、温かく迎えてもらえたので、とても心地よく過ごすことができた。チューリッヒ大やETHにある他の顔見知りの研究室にもお邪魔させてもらい、2週間のスイス滞在をフルに活用することができた。

 スイス到着後の最初の1週間は雨で息が白いくらい寒かったけど、その週末からは最後の日までずっと晴れて、日本ほど暑くもなく、最高の天気だった。日本と違って、天気の変わり目が極端な一方で、同じような天気が何日も続く傾向があるように感じた。週末は電車で遠出して、2日でイタリア・リヒテンシュタイン・フランス・ドイツを巡る国境越えツアーをした。

最後の週末はStefanが案内をしてくれて、ビール湖・ヌーシャテル湖・ラショードフォンの時計博物館を見て回った。特にスイス領内で最大の湖のヌーシャテル湖は、前回の訪問で行きそびれた場所だったので、天気の良い日に行くことができて感激した。

 エストニアのような激しい飲み会も回避して、最後まで体調を崩すこともなく、毎日充実していてとても楽しかった。国際交流は野外調査と並んで「これがやりたかったから研究者になったのだ」といっても良いくらい、研究者という仕事の魅力の本分だと思っている。世界に数人しかいない、ものすごく狭い世界の興味を共有する仲間と、紛れもない人類最先端の議論を楽しめるこの醍醐味は、他の職業ではありえない。そこで感じる文化や環境の違いや、それを乗り越えて相互理解を深める過程も、研究だけでなく人生の幅も広げてくれる貴重な経験だ。来年度の共同研究の申請が上手く採択されれば、今度はぜひスイスの研究者たちを日本でもてなしたい。

Symposium of Aquatic Microbial Ecology (SAME17)@エストニア

恒例の国際会議Symposium of Aquatic Microbial Ecologyに参加してきた。この会議には修士課程の頃から参加していて、ウプサラザグレブポツダムに続いて、コロナで4年空いたけど4回連続の参加になる。名前の通り水圏微生物生態学者だけで集まって、パラレルセッション無しで1週間の規模で行われるもので、大御所研究者との距離感も近く、自分が一番好きな国際会議だ。

 今回の会場はエストニアのタルトゥという場所で、大阪から東京、東京からヘルシンキに飛んで、ヘルシンキからエストニアの首都タリンにフェリーで渡り、タリンからタルトゥへは2時間のバス移動で、合計36時間の大旅行だった。今もロシア上空がとべないために北極回りで余計に4時間ほどかかっている。エストニアは青黒白の国旗がかっこよいのだけど、黒はロシアに支配されていた暗黒時代を表すとのことで、街のいたるところでウクライナの国旗がはためいていて、反ロシアの雰囲気がたちこめていた。タルトゥはエストニアでは2番目に大きい街とのことだけど、人口10万人のコンパクトな街で、街の見どころも半日あれば回れてしまうような規模だった。国の人口も100万人ちょっとで、元大統領が会場に現れるなど、小さな国ならではの演出もあった。

 去年のスイスでのISMEではコロナ陽性になったら帰れなかったので、感染を避けるためにまともに学会を楽しめなかったけど、今回はそのような制限なく、4年ぶりにコロナ前と同じ要領で国際学会に参加することができた。場所なのか時期なのか、今回は参加人数が少な目で、アメリカやアジアからの参加者がほとんどいなかったけど、ヨーロッパの淡水微生物の研究をやっているグループは大抵来ていたので、色々と情報交換ができてよかった。

 自分の中での変化として、無名だった以前はコネクションを作ろうと必死で、無理して色々なコミュニティに飛び込んで疲れていたけど、それなりに名前や研究を知ってもらえるようになって、頑張らなくても話し相手がいるような状況になったことがある。コミュニティに参加するしないを自分の意志で決める余裕ができて、プレッシャーやストレスをあまり感じずに済んだことは大きかった。あとは、今回は自分の発表内容に結構自信があったので、口頭発表で全員にそれを見せて、思いきり自分の研究をアピールできることが楽しく、気持ちよかった。論文の引用などを見ていても、やはりどうしても人として知ってもらわないと、研究としても知ってもらえないという側面を感じている。極東で一人、ヨーロッパの淡水微生物オールスターの大型プロジェクトに引けをとらないことをやっているのだぞ、というのを示せたのではないかと思う。ISMEに続いて発表が最終日だったので、最後の日まで発表のことや体調のことを考えなければならず、最後の日になるまで発表内容を踏まえた議論などができなかったのは少し残念だった。学会での発表は早ければ早いほど良いと思った。次回は2年後にバルセロナで行われる。何もなければまた参加すると思う。

 しかし改めて思うのは、ヨーロッパの人たちの体力と生活リズムが本当にクレイジーだということだ。連日日付が変わるまで飲んで、朝は9時からちゃんと発表に来て、コーヒーブレイクのたびに砂糖まみれの菓子とコーヒーをがぶがぶ飲んでべちゃくちゃ喋って、夜はまた飲みに出かける。前回同様に、連れまわされるのを警戒して行動していたのだけど、発表前日にちょっとだけご飯を一緒に食べに行くつもりが、L単位でビールが出てきて肝臓を破壊されそうになり、さらに2次会に連れていかれそうになったので「明日発表あるから」といって振り切って逃げてきた。ホテルに戻って水をがぶ飲みしてなんとか持ちこたえたけど、彼らはアルコール消化能力が3倍くらい違うので、一緒にいたらあっという間に致死量を超える。

 発表を終えた最終日は懇親会。これがまたクレイジーだった。まず会場が科学館のようなところで、物理や宇宙をテーマに色々なアトラクションあって面白かった。日本だと安全性の問題で却下されそうな刺激的なアトラクションもあって、酔っぱらった一流の研究者達がそこで子供のようにはしゃいでいた(けが人が出なくてよかった)。その後恒例のダンスパーティーが始まってお開きの23時頃まで子連れも含めてほとんどが残っていた。

そこからは公式プログラムにも書かれている"Afterparty (Duration 915 min)"が始まる。

深夜に屋外で爆音を鳴らしているバーに大集団で移動してそこでさらに飲んで踊る。別にクレイジーな人だけが最後まで残っているわけでは無くて、オーガナイザーや大御所含めシニアの研究者たちも軒並み最後まで残っていたので、これがデフォルトというか、全員がクレイジーだった。自分は23時の懇親会が終わった時点で眠くなっていたので、そこで帰るつもりだったけど、「明日は発表無いだろ?」と言われて「まぁ、本当に最後だし1杯だけ付き合うか」と「本当に1杯だけね」とついていって、そこでおごってもらって出てきた「一杯」が1Lのモヒートだった(ちなみに大きさを確認せずに注文すると3Lが出てくる仕様で、大きさを確認して命拾いした)。これを爆音で何度も聞き返さないと会話もままならないカオスな環境の中でチビチビやりながらようやく午前1時半くらいにグラスが空になったので、最後に帰る前に別のテーブルにいた集団にお別れの挨拶をしに行ったら、「じゃ、お別れにもう一杯だけ」と「いやいやさすがにもう帰る」の押し問答。結局押し負けて問答無用でショット1杯おごられてしまい、それを飲み干したのが2時過ぎ。別の人に「日本式に丁寧に挨拶してたら永久に帰れないよ」と言われ、最後まだ半分以上の人が残っていたけど、お別れの挨拶はしないでそっと抜け出して、やっとホテルに帰ることができた。

 日本ではコロナを経て飲みに行く文化がかなり減ったように思うけど、ヨーロッパは全然変わってなかった。遅くまでダラダラ飲んで仲良くなる考えは嫌いではないほうだけど、歳をとっても寿命が縮むような飲み方するのにはついていけない。そもそも体格も遺伝子も違うので、同じように行動していたら体がいくつあっても足りない。

 タリンからの直行便でチューリッヒに渡り、今日からはスイスに滞在している。チューリッヒ大との戦略的パートナーシップの支援を受けて、6年前に滞在したLimnological Stationを中心に2週間ほど研究交流をする予定。久しぶりに会う人もいるので楽しみだ。

プロはかっこいい

NHK Worldの番組Science Viewで自分の研究を30分にわたってとりあげてもらった(1年間はオンデマンド視聴可能です↓)

番組として自分の研究を世界に発信してもらえたことももちろん嬉しかったのだけど、4日間テレビカメラに密着されて、普段見ることのない番組制作の裏側を見ることができ、自分自身にとっても面白くて貴重な経験ができた。今回はディレクターとカメラマンの2名体制で取材に来られて、まず2人で全てを回しているというのが驚きだったし、それぞれのプロとしての仕事ぶりを目の当たりにできてこちらも楽しませてもらった。ディレクターの方は専門家ではないのだけれど、こちらの研究の話をちゃんと理解して覚えていてくれて、細かく具体的な質問をしてくれる。「こんな細かいこと聞いてどうするの?」と内心思ってしまうような質問もあって、後になって聞いてみると、番組の構成をイメージしながらバックアップ的な意味も込めて聞いていたとのことで、完成した映像を見ると実際にその場面がうまく繋ぎとしてフィットしていたりして、すごいな、と素直に思った。カメラマンの方は、ディレクターの方にリードを任せつつも、要所で光の向きや時間の使い方の指示も出していて、自分は言われるがままに撮られながら、計り知れない計算が裏にあるんだろうなぁと感心しながら見ていた。

 4日間ほぼフルでカメラが回っていて、細かいことまで色々と話をして、撮影日から放送日まで1カ月ほどしかない中で、「これをいったいどうやって30分にまとめるのだろうか?」というのが、撮影後の自分のもっぱらの関心だった。自分自身も放送日まで番組をみることができなかったので、当日は「本当に伝わるような内容になっているのだろうか?」というワクワクドキドキのなかで視聴した。結果、30分の中にこれ以上ないほどの密度でうまく情報が詰め込まれていて、こんな短時間でここまで仕上げられるのはさすが、と素直に感心する内容だった。もちろん、こちらが説明したり実演したりしたことの多くがカットされてしまっていたけど、伝えたいことを伝えるための最小限の情報が、流れを犠牲にすることなくうまく収まっていて、30分ではこれがMAXだろうな、というのが理解できて、不満はなかった。

 さらに面白かったのが、放送後に改めてディレクターの方とやり取りをしている中で、「聞いて初めて気づくすごさ」があれこれ出てきたことだ。例えば、放送をみて自分が驚いたことの一つに、音声のクオリティがスマホなどで撮る動画とは比べ物にならないくらい良くて、さすがプロの機材は違うな、とか思っていたのだけど、聞いてみると実はそれだけではなくて、カメラマンの方のマイクセッティングへのこだわりがそのクオリティを生み出していたということを知った。知りたかった編集の裏話も少し聞けて、30分に編集する前に40分くらいになった段階があったこと、そこから秒刻みで取捨選択していく難しさや、あえて残した場面や選んだカットの背景、あとは「あの場面で一発でカメラのピントが合うのは実はすごい」みたいな話を教わったりして、気が付かないところに埋まっていた計り知れないプロの仕事に感心しきりだった。

 改めて「プロはかっこいいな」と思った。自分は、全然違う分野で繰り広げられる、これまでの人生で想像したこともないような「専門知識と技とこだわりの世界」を知るのが好きで、それによって交換不可能な地位を築いていく生き方に敬意と憧れを持っている。その点では研究者もプロであり、自分にとっての憧れの職業だったので、今の仕事には満足している。ちなみにさらなる憧れとして、料理人とか芸術家とか美容師とか職人みたいな、頭脳や専門知識だけでなく手技で生きていくタイプのプロに対してのリスペクトがずっとある。研究者でも、神業的な実験手技を持っている人がたまいるけど、そのようなものを自分も何か一つは欲しいなと思っているし、研究者を引退したら次は何か職人的な業界で自分を試してみたいなと時々妄想している。

 会社員時代は職業柄色々な業界の人と話すことができて、さまざまなプロの世界に触れることができていたのだけど、研究に戻ってきてからは研究者と話すことしかほぼなくなっていたので、久しぶりに全然違う業界のプロの仕事を見れて興奮したし、そういう尊敬されるプロの仕事を自分もしなければならないな、という思いを新たにした。